花笑みのプローミッサ Chapter.3 花笑みのプローミッサⅢ 1-3

* * *

 同時刻。レオナは執務室でハンスと明日の予定について確認していた。レオナは妙な気配を感じ、視線を執務室の外へと向ける。

「――……」
「では、明日の視察についてはこの予定で……殿下?」

 話の途中で意識を他所へと向けてしまったレオナに、ハンスが訝し気に眉を寄せる。レオナが時計を確認すると、とうに夜の八時を回っていた。そういえば、今日はまだが報告書を提出しに来ていない。残業は極力しないように言い含めており、も律儀にそれを守っていたはずだ。

 もう一度先ほどと同じ妙な気配を察したレオナは、無言で扉の方へと足を向ける。

「殿下? どちらへ……ッ」

 ハンスがレオナを引き留めようとした次の瞬間、執務室の扉に何かが勢いよくぶつかる音が響いた。身構えたハンスを手で制したレオナが扉を開けると、そこには息を切らせた様子の妖精がいた。

「お前、アイツと契約してる……」

 レオナに気が付くなり腕の中へと飛び込んできた小さな影は、と仮契約を結んでいるらしい妖精だった。何やら慌てた様子で、しきりに部屋の外を指差している。パクパクと口も動かしているが、あいにくレオナには聞き取ることはできない。妖精がわざわざレオナの元までやってきた時点で、に何かがあったであろうことは察せられた。その『何か』を聞きたいところだが、あいにく妖精の言葉がわからない以上、直接確認しに行った方が早い。レオナはハンスへラギーを中庭へ向かわせるよう伝えると、自身も赴くべく先ほどからずっとレオナのことを急かしてくる妖精の後を追った。

 レオナが中庭にたどり着いて周辺を窺うと、中央の噴水にうつ伏せでもたれかかるようにして倒れているを見つけた。

「おい!」

 レオナが駆け寄って抱き起こすが、はぐったりとした様子で気を失っている。その顔は血の気を失い、青を通り越して紙のように白い。レオナがの体を動かしたことで、だらりと向きを変えたの腕を視界に捉えたレオナは瞠目した。

「これ、は……」

 の右腕には、縦の大きな裂け目を中心に枝分かれするようにひびが入っていた。出血はしていない。しかしその状態はまるで、あのときのようで。レオナが呆然と言葉を失くす。

 ただ一度だけ。レオナが初めて、ユニーク魔法で他人を傷付けたことがあった。それはレオナやラギーの学生時代、NRCでの出来事だ。マジフト大会で勝利を得るために企ててきた計画がとん挫し、勝てる可能性が無くなった時点でさっさと諦めたレオナに詰め寄ったラギーをレオナは魔法で傷付けた。レオナのユニーク魔法は対象を干上がらせる、つまり水分を奪う。水分を奪われた対象は干からび、まずひび割れが起こる。それから徐々に形を保てなくなり、砂へと化していく。それはまさしく、この中庭で起きた現象そのものとそっくりだった。そして、今現在レオナの腕の中で意識のないの体にも、同じ現象が起こっていると思われた。

「水分、が、奪われてるのか」
「レオナさん!」

 背後からラギーが慌てた様子で走ってくる。それからレオナに抱えられたに気付き、ラギーがぎょっと目を剥いた。

「ちょっ、何があったんスか !? 」
「わからん。とにかく治療が先だ。医務室に連れて行く」
「怪我もして……これ、この傷って」
「……俺じゃねーぞ。ここに来たときにはすでにこうなってた」

 先ほどよりも範囲が広がっているひびに、レオナがぐっと眉を寄せた。の皮膚は全体的に潤いをなくし、かさついている。体中の水分が失われていっているのは明らかだ。おそらく気を失っている主な原因は脱水症状だろう。このまま水分が奪われ続ければ、の体はもたない。レオナは自身の体の中で魔力を巡らせると、小さく呪文を唱えの体の周囲に薄い水の膜を作り出す。そのまま皮膚の表面から水分を浸透させるように膜で覆えば、苦しげに寄せられていたの眉間の皺がわずかに弛んだ気がした。この魔法は魔力で大気中の水蒸気を急速に冷やし液体の水へと変化させるものだ。空気が乾燥している夕焼けの草原ではあまり量は増やせない上に、体内から失われた水分を補給することもできない。しかし、体の表面からこれ以上水分が失われるのを防ぐためには多少の効果はあるだろう。

 中庭から離宮の医務室へはそう距離も遠くない。ひとまずそちらへ移動させるべく立ち上がったレオナはラギーにいくつかの指示を出してから、その場を急ぎ後にした。



「こちらで唇を湿らせてください」
「あぁ」

 侍医から水で濡らしたガーゼを手渡されたレオナが、の唇を濡らしていく。レオナの横で侍医はてきぱきと点滴を用意し、の腕に針を刺した。

「意識は失っていますが、発見が早かったのが幸いでした。症状も先ほどよりだいぶ落ち着いたようですので、このまま点滴を続けて意識が戻れば問題ないでしょう」
「腕の傷は?」
「こちらは……そうですね、縫う必要があるほどの深さではありませんが、このまま傷が塞がったとしても少し痕は残ってしまうかもしれませんな」
「……そうか」

 侍医の言葉に、レオナは包帯の巻かれたの腕をじっと見つめる。仕事柄仕方ないとは言いつつも荒れた手指を気にしていたのことだ。もし傷跡が残ってしまったとしたら、少なからずショックを受けるかもしれない。

 これまで中庭で問題の現象が起こっていたのは、全て植物に対してだけだった。これまでがそうだったからと言って、これからもそうだとは限らなかったはずなのに。にも念のため気を付けるよう言い含めてはいたが、そもそも現場となった場所で、しかも単独で作業をさせるべきではなかったのだ。

「――か、殿下」
「!」

 考え込んでいたレオナは、呼ばれていることに気が付くのが一瞬遅れた。

「彼女は私が見ております。殿下は戻られますか?」
「俺は――」

 レオナはちらりとを見やる。先ほどまでは色を失っていた顔にも血の気が戻り、表情もだいぶ穏やかになっている。侍医の言う通り、もう危険な状態は脱したようだ。

 現在中庭ではハンスやラギーが中心となり、侵入者の形跡が無いか、魔力の痕跡が残されているかなどを調査させているところである。レオナももう一度きちんと現場を検めておきたい。

「一度中庭に戻る。それから……後でまた来る」
「承知いたしました。では、何かありましたら早急にお知らせいたします」
「頼む」

 レオナは侍医に一言断ってから、その場を後にした。



* * *
 結局レオナが再びの元を訪れられたのは、日付も変わり夜がだいぶ深まったころのことだった。その間にの意識も戻ったらしく、レオナが医務室の扉をノックしたときはすでに体も起こして水を飲んでいるところだった。はレオナの姿を認めると、パッと顔を輝かせた。

「……思ったより元気そうだな」
「レオナさん!」
「もうお水は大丈夫ですか?」
「はい! ありがとうございました」
「また何かありましたら呼んでくださいね」

 傷を負った右腕は使えないらしく、水を飲むために看護師に手伝ってもらっていたらしい。看護師はカップと水差しを近くの棚へ片付けると、レオナに「点滴で最低限の水分は補給できていますが、話していてもし喉が渇きそうなら早めに飲ませて差し上げてください」と声をかけ出ていった。レオナはベッドの横に置いてあった椅子を引き寄せると、その上に浅く腰掛ける。

「具合はどうなんだ」
「まだ少し体が怠いけど、この通りぴんぴんしてるわ」

 笑って腕を広げようとしただったが、右腕が痛んだのか小さく呻いた。何をしてるんだ。呆れたレオナがに「大人しくしてろ」と釘を差し、ずり落ちた上着をかけ直してやった。

「むぅ……この腕、どのくらいで治るかしら。利き腕が使えないって不便なのね」
「なぁ」

 がきょとんとした顔でレオナを見上げる。

「お前、もう家に帰れ」

 レオナの言葉を聞いたの表情が、固まった。

「もうじゅうぶんだろ」
「…………」
「お前はこんなところに縛られる必要なんてない」

 淡々と告げたレオナを、は唇を引き結んで見つめ返す。

 はまだ若い。庭師としての知識も技術もじゅうぶんにある。専門家ではないレオナからしてみても、これまでのの作業を見ていればそれはわかった。だからこそ、これから先の長い人生を過ごす場所を、こんなに早く決めてしまう必要なんてない。欲望渦巻く薄汚い大人たちの住む世界で、いつまでもくすぶり続けていく未来が決まっている男のためなんかに。幼い頃の幻想を追いかけて、までくすぶり続けていく必要なんてない。

「ねぇレオナさん」

 それまで黙って聞いていたが、ようやく口を開く。

「レオナさんは、どんな気持ちであの庭を見ていたの?」
「は?」
「だって、あの庭でよくお酒、飲んでたんでしょう?」
「……別に、ただ一人で考えごとするのにちょうどいい場所だっただけだ」
「じゃああそこはレオナさんにとって、ゆっくりしたい場所なのね」
「お前、何言って――」
「私、引き下がらないわよ」

 が真剣な顔で、レオナを見つめる。

「私の十一年分の覚悟、舐めないでちょうだい。私は絶対に、貴方に私を庭師として認めてもらう。それ以外の理由で、貴方の元で働けるチャンスを諦めてたまるものですか」
「……頑固すぎんだろ」
「それだけの気持ちを、レオナさんは私にくれたのよ」

 そう言って笑うの顔から、レオナは目を逸らした。代わりに、包帯を巻かれた細い腕が視界に入る。

「……傷が、残るかもしれねぇ」
「聞いたわ。でも傷が塞がれば痛いのは無くなるって。それなら何も問題無いわ」
「問題が解決しない限り、あの庭はどうにもできねーぞ。もう関係者以外立ち入り禁止にもしてる」
「じゃあ解決するしかないじゃない。私も関係者なんだから入って調べても良いでしょう?」
「ッ良いわけあるか! 次に何か起きて、今度は怪我で済まなかったらどうすんだ」
「私の人生がかかってるのに、私が人生をかけなくてどうするのよ」

 真剣な顔できっぱりと言い切った後、ころりと表情を変えたは笑って付け足した。

「あぁもちろん無茶はしないわよ? 私、前にも言ったけど防衛魔法とか使うの苦手だし。でもラギーさんとかも調べてくれてるんでしょう。そこに混ぜてもらえれば良いのよ。植物についての知識なら、誰にも負けないわ。それに妖精についてもね」
「妖精?」

 脈絡もなく出てきた単語に、眉を寄せる。

「倒れる前に、声を聞いたの。知らない男の人の声と、幼い女の子みたいな声。男の人の方はよくわからなかったけど、女の子の方ははっきりと気配も感じた。あれは、植物の妖精よ」

 一縷の迷いもなく言い切ったに、レオナは目を見開いた。妖精の仕業。その可能性が無かったわけでは無いが、王宮に妖精が入り込める可能性があまりにも低いために除外していた。

「――詳しく話せ」

 はレオナに向き直ると、真剣な顔つきで自分が見たもの、聞いたものを話し始めた。

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