* * *
甘えたい盛りということもあるのだろう。子どもたちはこの短時間でずいぶんとに懐いてくれた。特に五歳の男の子の一人は、先ほどからにべったりとくっついて離れようとしない。今は鬼ごっこから次の遊びのために地面へ丸を描いているところだ。子ども特有の温もりに頬を綻ばせながらが枝を使って手を動かしていると、いつの間にかこちらへ来ていたらしいレオナに後ろから呼ばれる。振り向いたは自身の背中に抱き着いての手元を覗き込んでいた男の子に「ちょっとだけごめんね」と謝って離れると、レオナの方へ駆け寄った。
「レオナさん、どうかした?」
「あっちでの作業は終わったから、今度はこの辺りを――」
言いかけたレオナが、ピクリと耳を震わせて崖の頂上の方をを見上げる。つられてレオナの視線の先を追いかければ、頂上の辺りで少し飛び出た斜面の一部に、大きな線のようなものが見えた。まるでそこだけをナイフで切り裂いたかのような線はすこしずつ範囲を広げ、やがて土の中に埋まっていた小石がぽろぽろと剥がれ落ちていく。
崩れる。が目を見開いた途端、地鳴りのような音とともに地表の一部が崖の斜面から切り離された。場所は、子どもたちの真上。
「ッ危ない!!」
「おい!」
考えるより先に、の足は走り出していた。落下しかけている土塊にはまだ気付いていない様子の子どもたちは、駆け寄ってくるをキョトンとした顔で見返していた。が子どもたちの手を引いてその場を離れようとするが、間に合わない。目の前まで迫ってきた土塊に、は覆い被さるように子どもたちを抱き寄せた。
「チッ……! 『俺こそが飢え、俺こそが渇き――』」
レオナが呪文を唱えながら、土塊とたちの間に割り込む。
「『平伏しろ!
魔力を集中させた右手を掲げると、土塊はレオナの手へ触れる直前に砂と化し、霧散した。防衛魔法の陣を張り巻き起こる砂塵からも自分たちを守ったレオナは、周囲が落ち着いたのを確認してから魔法を解除する。
「怪我は無いな」
たちへ体の向きをレオナが怪我の有無を問う。はバクバクと鳴り響く心臓を押さえながら、ぎこちなく頷いた。
「え、えぇ……ありがとう。皆も、大丈夫?」
の腕の中で呆然としている子どもたちにも怪我は無いかが確かめる。それぞれ服や顔が土で少し汚れてしまっているが、特に怪我は無さそうだ。はほうと安堵の息を吐いた。瞬間、レオナが声を張り上げる。
「馬鹿かお前は! 無闇に飛び込むんじゃねぇ!」
「ッ!!」
がびくりと身を竦ませる。に抱えられている子どもたちも同様だ。の肩越しに怯えたような表情でレオナを見上げてくる子どもたちと視線が交わり、レオナは気まずそうに目を逸らした。
「……ごめんなさい」
「はぁ……お前、防衛魔法はまだ使えないのか?」
「一応使える、けど……魔力操作が苦手で……発動までに時間がかかるの……」
しょんぼりと項垂れて答えたに、レオナは大きく息を吐いてがしがしと首の後ろを掻いた。レオナはとのやり取りを見守っていた子どもたちと目線を合わせてしゃがむと「今日はもう帰れ」と促す。
「今年もまたそのうちここには入れなくなる。父さんと母さんに伝えろよ」
子どもたちはレオナの言葉にこくりと頷くと、レオナとへ頭を下げ街の方へと走り去っていった。それを見送ったレオナはいまだに地面にへたり込んだままのに手を差し出す。はおずおずとレオナの手を取り、支えられながら立ち上がる。
「……ありがとう」
「もう無策で飛び込むのはやめろ。良いな?」
「ん……」
は目を伏せたまま、頷く。マントについた砂や塵を手で払いながら、はもう一度崖の方へ近づいていくレオナの背中に声をかける。
「あの子たち、レオナさんのこと知らないのね」
レオナが怪訝な顔で、肩越しに振り向く。
「レオナさんが、第二王子だって」
「あぁ……別に、知る必要も無いだろ」
「……そうなのかも、だけど」
なんとなく、もったいない気がした。
子どもたちがあんなにも懐いていて、今日は危機さえも救ってくれた大人。自分だったら、きっと相手がどこの誰なのか知りたいと思うだろう。そして、きっとたくさんの人に話して回る。
かつて、自身がそうだったように。
レオナのすごさと、優しさを、色んな人に知ってもらって、はるか遠くの世界に生きるレオナに、自分の『ありがとう』が届いて欲しいと願うだろう。
そうして、レオナの評判が多くの人の知るところとなれば。今はレオナのことを快く思っていない人たちだって、レオナのことを見直してくれるかもしれない。皆が皆、そうはいかないだろうけれど、嫌われ者の第二王子の噂はいわれのない噂でしかないのだと知る者が一人でも増えてくれたなら。
「レオナさんはこんなにすごくて、優しい人なんだから」
「――……優しい?」
ぎゅ、と胸の前で拳を握ったに、レオナが鼻白んだ。
の言葉を繰り返して、顔を歪めて笑う。
そんなレオナに、は眉を顰めた。どうして、今、その顔をするのだろう。
「お前にはどんな俺が見えてるんだか知らねーが、ソイツはとんだ幻想だな」
レオナの『幻想』という言葉に、は反射的に言い返していた。
「ッ幻想なんかじゃないわ! レオナさんは本当に――」
「やめろ」
レオナがの言葉を遮り、冷たく睨み付ける。
「お前が、俺の何を知ってる?」
レオナが何も答えられないに顔を寄せる。吐息が触れそうなほどの近さでを見下ろし、嘲るように目を細めた。
「まさか、たった一度会ったあのときだけで、俺のことをわかった気でいるんじゃねーだろうな」
が目を見開き、言葉を失う。
「お前の『憧れ』を、俺に押し付けるな」
が伝え続けてきたレオナへの気持ちは確かにエゴだった。自覚はある。以前がレオナの元へやってきた理由を話したときに、レオナにもそう伝えた。だけど、にとっての気持ちは全て本当のことでしかなかった。しかしレオナはの『憧れ』はまやかしでしかないと言っている。幼かった子どもが思い出というフィルターを通して見たものを、事実だと思い込んでいるだけだと。ずっと。が、ただ夢を見ているだけだと、レオナはそう思っていたのだ。
「……あぁ、そうか。お前、『王子様』の元で働きたかったんだもんな。『第二王子』の評判が上がれば、ソイツに仕えてるお前の格も上がるもんなァ」
「え、なにそれ、違……」
一瞬、レオナが何を言っているのか理解が遅れた。
「残念だったな。『第二王子』が誰からも好かれるような日も、誰もが認める素晴らしい人間だと思われる日が来ることも、この先一度だって訪れない。今のうちに、『王太子』様に見初められていつか立派な『王様』の元で働けるように頑張っておいた方が良いんじゃねーか?」
レオナが笑う。嘲笑する。
「あぁ、そういやこの前チェカとずいぶん仲良くなってたみたいだし、良かったじゃねーか。アイツは単純だからな、取り入るなら俺みたいな捻くれ者よりずっと――」
「……私、一度だって、貴方を『第二王子』様なんて呼んだことはないわ」
の言葉に、レオナが眉を顰める。それはそうだろう。第二王子という言葉は立場を指す名称であって、呼称ではない。
「確かに、レオナさんは私にとっての『王子様』だけど」
言葉を探るために一度目を伏せたが、顔を上げて真っ直ぐにレオナを見つめる。
「レオナさんは私にとっては夕焼けの草原の『王子様』じゃない。私の未来を救ってくれて、私の生き方を変えてくれた……『ヒーロー』としての『王子様』なのよ」
じっとを見つめ返すレオナに、は続ける。
「私にとってはレオナさんだけが『王子様』よ」
「……夢見すぎなんだよ、お前は」
レオナはため息を吐くと、から視線を外した。
「どうせそのうちわかる。あの王宮で暮らしてりゃ、嫌でも思い知らされる。どれだけ功績をあげようが、どれだけいい子ちゃんに振る舞おうが、最後は全部、
レオナが口元を歪めて笑った。
「俺はお前が夢見てる『ヒーロー』みたいな『王子様』には、一生なれやしない」
「……ッレオナさんはもう『
「だからそれはお前の幻想だっつってんだろ」
「違う!」
「違わねーよ」
「ッレオナさんの頑固者!」
「頑固はどっちだ……ったく、子どもみてーに駄々こねてんじゃねぇよ」
「子どもじゃない!!」
「そうやってムキになるところが子どもだっつってんだ」
「だって、レオナさんが認めないからじゃない! レオナさんはすごい人なの!! 頭も良くて、色んな魔法が使えて、力だってある! それで、自分に何ができて何ができないのかもわかってて、自分の力の使いどころを全部ちゃんと、考えて使える人で! 困ってる誰かを、目の前で危ない目に遭おうとしてる人を……っ助けようと思って、ちゃんと助けてあげられる人……!!」
一息に言い切ったの声は震えていた。息を荒げ、今にも泣き出しそうになるのを堪えているから、きっと酷い顔をしている。
「レオナさんが、自分のことどう思ってるかなんて関係ない! レオナさんのこと、良くない風に思う人だっているのかもしれない。でも私は、私が知ってるレオナさんだって、ちゃんとレオナさんなんだから……!」
は自身の頭の中が熱を帯びていく感覚に、顔を歪める。口から出ていく言葉が、止まらない。
「レオナさんはたくさんのことを知ってて、私には想像できないようなこともいっぱい経験してきたんだろうから……色んなものを、目にしてきて。レオナさんが見て、考えたことを繋ぎ合わせて出した答えが、それだけが、本当のことだって、それ以外の答えは全部、間違いだって、思ってる? 他の人たちの答えも、皆同じだって、思ってるの……?」
「…………」
「レオナさんが言う本当のレオナさんこそ、『幻想』でしかないじゃない」
「…………」
「私が知ってるレオナさんだって、全部、レオナさんなのよ。それを嘘だって、全部勘違いだって、そんなの、貴方が勝手に決めないでよ!」
「……言いたいことは、それだけか?」
レオナは冷めた目でを一瞥すると、もう話は終わりだとばかりに身を翻した。
「レオナさん!」
「まだ作業が残ってんだ。静かにしてろ」
冷たく言い放たれた言葉に、は押し黙るしか無かった。顔を伏せて、ぐっと唇を噛み締める。
の視界がじわりと滲み、見下ろした地面にぽつりと丸い染みが広がった。きっと、今のが何を言ったところで、が本当に伝えたいことはレオナには届かない。レオナと出会ったあの頃よりも成長して、たくさんのことを知って、言葉だってずっと豊富になったのに。今もまだ、上手く言葉を紡げない。はそれがただただもどかしく、悔しかった。
「……レオナさん、もう少しだけ、聞いてよ」
「…………」
「ねぇってば」
「…………」
無視である。はむすりと唇を尖らせる。が眉を顰めたままどうしたものかと考えを巡らせていると、ゆらりと揺れる尻尾が視界に入った。
「…………」
無視するレオナさんが悪いんだからね!
は心の中で言い訳してから、いまだにこちらを振り向いてくれる気配もないレオナの尻尾、マントがめくれ上がり見え隠れしている付け根の辺りに手を伸ばした。
次の瞬間、の視界は反転した。
「……何してんだお前」
「えっ、あれ?」
気が付いたときには、は仰向けで地面に寝転んでいた。正確に言い表すと、背後から迫った身の危険を本能的に察知したレオナによって、押し倒されたのである。レオナは呆れた顔でを見下ろしている。
「はぁ……この辺の作業が終わったら帰るから、それまで大人しく待ってろ」
しかも、聞き分けの悪い子どもを相手にするように諭されてしまった。当然、としては腹立たしい限りである。しかしあることに気が付いたの怒りは、すぐに収束していった。
背中が、痛くない。
背中だけではない。なかなかの勢いで地面へ押し倒されたはずなのに、頭にも、体のどこにも痛みがないのだ。どうしてか、なんて。理由なんて、一つしか思い当たらなかった。
が地面へ叩きつけられる直前に、レオナが何かの魔法で衝撃を和らげてくれたのだろう。無意識に体が動いてしまったあの状況でなお、咄嗟に対処できてしまうレオナは、やはりすごい人物だ。
魔法の発動速度には、魔力操作の正確さが大いに関わってくる。精密かつ素早い魔力操作を行うためには、繊細な感覚と想像力が試される。想像力だけで言えば、もそれなりには得意とするところだ。しかし繊細さとはほど遠い性格のは、魔力操作においても元来の粗雑さが如実に表れてしまう。
単純な構成でありながらも発動速度が物を言う防衛魔法は、特に不得手な部類である。レオナは難なく瞬時に発動してみせるが、同じレベルの防衛力と防衛範囲で発動しようとすれば、ではおそらく発動できるまでに一分近くかかってしまうことだろう。
は黙々と作業に勤しむレオナの背中に向けて、もう一度唇を尖らせた。
レオナは身分が高いだけでなく器量良しな上に、知識の量や運動神経も抜群。魔法士としての腕も、とてつもなく優秀。ハイスペックという言葉を体現している男だった。そして何より。
レオナはがこれまで出会った人たちの中でも、とびきり優しい男だった。しかし同じくらいに、とにかく不器用な男でもあった。
はレオナの背中をじっと見つめる。振り向く気配は無い。
大きくて、広い背中。十一年前、自分を抱え上げてくれた腕の力強さも、安心感も。今でもハッキリと思い出せる。
自分だって大きくなった。背も伸びたし、魔法は苦手だけど使えないわけじゃない。きっとまだ伸びしろもある。できることもたくさん増えた。まだ幼さが抜け切れていない自覚はある。しかし、それでも確かに毎日少しずつ、大人に近づいているのだ。あの頃のレオナと同じ年齢に達する日がやって来るのも、きっとあっという間だろう。しかしが重ねた時間と同じ分だけ、レオナもまた時を重ねている。どれだけ頑張ったところで、がレオナに追い付ける日は来ない。
届かない。
が憧れた『王子様』は、今もずっと遠くにいる。
はくるりとレオナに背を向けると、森の方へと足を向ける。背中に目でもあるのか、すぐに気付いたレオナがを呼び止めた。
「どこ行く気だ」
「……まだ終わらないんでしょう。少しこの辺りを見てくるわ」
一人になって、頭を冷やしたかった。
「あまり奥まで行くなよ」
「わかってる!」
つい声を荒げてしまった。心配してくれていることはわかるのに、ここまで来てさらに子ども扱いされているような気がして苛立ってしまった。きっとまた、まだまだ子どもだと思われていることだろう。レオナの方へ顔を向けられないまま、は木々の隙間へ隠れるように、森の中へと潜りこんだ。
大きく息を吸えば、土と葉に混じって初めて嗅ぐ甘い花の香りも肺に入り込んでくる。息を深く吸って、吐いて。何度か繰り返して、幾分か気持ちも落ち着いたは、改めてぐるりと周囲を見回した。
乾燥地帯の森は、背の高い木が多い。はるか頭上高くに葉を茂らせる木を見上げたは、がっしりとした太い幹にそっと手を添える。の懐からひょこりと出てきた妖精は、うっとりとした様子で木に身を寄せた。やはり人の手が加えられた植物よりも、自然の中で生きる植物の側の方が居心地が良いらしい。
「…………」
先ほどのレオナとのやり取りを思い出しの目に涙が滲みそうになって、慌てて頭を振って誤魔化す。
弱気になってはダメだ。自分は覚悟を決めて、ここに来た。必ずレオナに認められるような庭師になって、いつかレオナにも『あの時助けて良かった』と思ってもらえるような、立派な大人になってみせるのだ。
だけど。
レオナにとって、の想いが重しになる可能性なんて、思ってもみなかった。
これまでレオナがどんな気持ちで、が口にしてきた『憧れ』という言葉を聞いていたのかわからない。レオナの元でで働きたいと言ったに、レオナは約束通りチャンスをくれた。しかしそれだって、ただ大人の責任を果たすために受け入れてくれただけだったのかもしれない。レオナがのことを少なからず気に入ってくれているのかもしれない、だなんて。とんだ自惚れにもほどがある。
……いや、それにしてはいつもずいぶんと楽しそうにのことを揶揄ってきていたが……
「もうどれがレオナさんの本当の気持ちなのか、わからないわ……」
はまだ、レオナのことをほんの一部しか知らない。
「……呆れられて追い出されないように、しないとね」
もしもっとレオナのことを知りたいと思うのならば、結局のところはこれからもレオナの元で、レオナと関わり続けていくしかないのだ。
が先ほどの場所に戻ると、レオナが辺り一帯に何かの魔法をかけている最中だった。レオナを中心にキラキラとした数えきれないほどの光の粒が宙を舞い、足元の地面へと溶け込んでいく。レオナは小さく呪文を唱え終えると、魔法石の付いたペンのようなものを一振りしてから懐へ仕舞った。
「頭は冷えたか?」
「……さっきよりはね」
「もう日も暮れる。帰るぞ」
「今、何したの? 最後の魔法」
「雨が降っても一定以上の水分が地面に染み込まないように膜を張った。何ヶ月か経てば効果は切れるが、しばらく来られないからな」
「へぇ」
そんな魔法もあるのか。は魔法がかけられた地面に触れてみたが、何の変哲もないただの土にしか思えない。この土で植物は育てられるのだろうか。興味が湧いてきたが、レオナが「もう行くぞ」と急かしてくるので渋々腰を上げた。
「…………」
「…………」
行きでは軽口を叩き合いながら歩いていた道を、今は無言で並んで歩いていく。活気に満ちた露店街とは相反して、二人の間に流れる空気はとても重いものだった。ときおりがチラリとレオナを横目で窺うが、二人が王宮へと着くまでも、着いてからそれぞれの部屋へと戻る間も、レオナの横顔がの方へ向けられることは、終ぞなかった。