* * *
レオナのお使いを無事にこなしてから数日後。はこれから控えている植物の仮植えに備えて、噴水周辺の土を再度確認していた。先日の休暇の際、祖父の友人と会い話を聞いているときに土についても色々とアドバイスをもらったのだ。そのため念には念を、ともう一度問題が無いか確かめているところだった。
「うん、土の状態は大丈夫そうね。でも水を撒いたときに少し乾きやすいから、対策しておかないと」
仮植えを予定している植物たちと土との相性は問題ない。あとは実際に植えてみてから様子を見ることになるだろう。
は中庭の中央から移動している途中、怪しげな挙動をしている後ろ姿に気が付いた。の周りを上機嫌な様子で飛び回っていた妖精が、慌てての懐へ潜り込む。
その不審な人物は枯れ草の影からときおり顔を覗かせ、何かを警戒するように廊下の方を窺っている。キャラメルブラウンの三つ編みに、白を基調としたきらびやかで見るからに上等な服。よりいくらか背の高いその後ろ姿が誰なのか、思い当たったは思わず叫びそうになった。
口を手で覆い、すんでのところで堪えたは不審人物……ではなく、王太子殿下の背中をじっと観察する。いったい何をしているのだろうか。というか、何故こんなところに。
気付かなかった振りをしても良かったが、彼はちょうどが次の作業で確認をしておきたかった位置にいる。仕方がないので、は声をかけることを選んだ。
「あのぅ……」
「うわぁッ!?」
声をかけられたチェカが飛び上がる。慌てて振り向きの顔を確認すると、目を輝かせてに詰め寄った。
「っ君! おじさんの!!」
「え?」
「式典でおじさんと一緒に参列した子だよね!?」
「あ、はい。その節はどうも――」
普通に会話を続けそうになって、ははたと気が付く。王太子とこれほど気安く話しても大丈夫なのだろうか。まさか不敬罪に処されたり……!?
が顔を青ざめて頭を下げる。突然かしこまったに、チェカが慌てる。
「あっ、か、顔を上げて。今は僕以外いないから」
「え、お一人なんですか?」
護衛が付いているものなのではないのだろうか。が不思議に思い体を折り曲げたまま顔を上げて尋ねれば、チェカはキョロキョロと辺りを見渡し声を潜めて「おじさんに会いに来たんだ」と答えた。
「おじさん……」
王太子のチェカは現国王であるファレナの息子。そんな彼が言う場合の叔父はつまり、レオナだ。叔父に会うために、何故こんなにもこそこそとする必要があるのだろう。の疑問に、チェカが寂しそうに笑う。
「あまり良い顔をされないんだ……僕が王太子だから」
誰に、とは聞かなかった。おそらくは、チェカを取り巻く全ての人間にだろう。そして、チェカが会いたがっているレオナ本人にも。は式典や夜会の際にレオナのことを気にしていたチェカに対して、レオナがじゃっかん鬱陶しそうにしていた様子を思い出す。レオナはもしかしたら、ファレナへ対するときと同じようにチェカのことも少々苦手としているのかもしれない。しかし当の本人を前にそんなことを言えるほど、は無神経ではない。上手くフォローできるほどの話術もないので、ただ気が付かなかった振りをすることしかできないのだが。
「でもちょうど良かった。君にも会えたらなって思ってたから」
「私、ですか?」
「式典の時は話せなかったし、夜会でも僕からは声をかけには行けなかったからね」
チェカが瞳をキラキラと輝かせて尋ねる。
「ね、君、おじさんの恋人なの?」
「こ!? 違います!!」
が慌てて否定すると、チェカが至極残念そうに眉を下げた。いたたまれなくなったが事情を一通り説明すると、チェカは得心がいったように頷いた。目を伏せたチェカが、ベンチの背もたれを指先でそっとなぞる。
「父様がおじさんを心配する気持ちも、わかる気がするな」
「ファレナ様の?」
「国民たちが不安に感じてしまう、っていう理由も確かにそうだなって思うんだ。でもそれ以上に、おじさんには誰かが必要だと思うから。おじさんの隣で、いつだっておじさんのことを想ってくれる人」
「……どうしてですか?」
が首を傾げる。柔らかな風が二人の頬を撫でていく。チェカは目を細めた。
「
「でも、レオナさんのこと、好きだって人がたくさんいるじゃないですか」
もちろん、レオナのことを快く思っていない人間もいる。特に離宮の外の人たちには、その傾向が強いように感じた。しかしの知る限り、レオナが生活しているこの離宮の中で働く人たちは皆レオナのことを尊敬しているし、レオナの下で働けることを誇りに思っているはずだ。
「ファレナ様も、貴方も、離宮にいる人たちだって……レオナさんのこと尊敬してるし、好きって伝わってくるもの」
「うーん、上手く言えないけど、きっと僕らじゃダメなんだ。おじさんってさ、話したりするときには相手の目線とか立場とか、そういうものに合わせて振る舞うんだ。『第二王子』として生きるおじさんを知っている僕らの気持ちは、おじさんからしてみればきっと……重しにしかならない」
チェカの言葉の意味は、には理解できない。理解できないけれど、その言葉を形作る元となった『気持ち』の方はわかった。
「皆レオナさんのこと、好きなだけなのに」
「……君も?」
口元に笑みを湛えて尋ねてきたチェカに、は一度瞬いてから目を細めた。
「もちろん。好きですよ。あの人は、私の『憧れ』ですから」
レオナと出会う前、にとって祖父は『一番』だった。愛情を注いで自分を育てて慈しんでくれる両親のことを、も同じように愛していたし、家族として尊敬もしていた。けれど、祖父はにとっての『夢』そのものだった。
が初めて祖父の仕事を見たのは、おそらく三歳の頃。まだ言葉も拙く、己の感情でさえも上手く言葉に乗せることがままならない幼い時分だ。真剣な眼差しで手元の植物に触れる祖父の横顔と、そんな祖父に寄り添うように周りを取り囲む妖精たちの姿。春の陽光を受けキラキラと輝くその光景は、の目に痛いくらいに焼き付いた。
そして、七歳の頃。レオナと出会ったあの日、を抱え妖精と対峙するレオナの横顔が、祖父の横顔と重なった。
その横顔には、『誇り』が在った。
己はかくあるべきと定めた、強固たる意志が。
その横顔には、『自信』が在った。
己が積み重ねてきた時間への、絶対的な信頼が。
その姿はまさしく、祖父が。レオナが。彼らが生きてきた証そのものだった。二人がこれまで歩んできた人生の、結果だ。
二人の横顔は、ともに美しかった。
心が震えるほどに、眩しかった。
が目を、心を奪われたのは、後にも先にもこの二人だけだった。
は祖父とレオナは良く似ていると思っている。容姿や性格のことではない。彼らの心の奥深く、根っこの部分。植物が根を張った土から養分や水を得るように、二人は自身が立つべき大地を力強く踏みしめ、知識や経験を蓄え続けている。飽きることなく、学ぶことを止めない。そして、積み重ねてきた時間の全てを糧に、美しい花を咲かせることができる人たちだ。
けれど。それだけなら、はこれほどレオナに憧れ続けることは無かっただろう。がレオナのことを語るとき、そこにはの十一年間積み重ねてきた想いが込められている。
はレオナに感謝している。命を救われたことももちろんだが、それだけではない。レオナはあの日、へあるものをくれた。祖父でさえも、へ与えられなかったもの。だってきっと、祖父もと同じだったから。
は妖精に愛されている。祖父曰く、一族の中でも特に妖精たちから好かれているらしい。理由も不明な上、妖精たちが求めているのは自身のことではなくあくまでの体に流れている魔力の方だ。しかし魔力だってが持って生まれてきたの一部であることに変わりはない。
妖精の加護を受けられることはとても希少だ。生きていく上で、大いに役に立つ。しかしそれだって、必ずしもメリットばかりというわけではない。は物心つく前から何度も何度も、妖精たちのせいで危険に晒されたり我慢を強いられてきた。妖精の機嫌を損ねてしまい怪我をさせられたことも、妖精が望むから自分の大切なものをあげなければいけなかったことも。特に後者については、にとって大切なものであればあるほど妖精たちからは魅力的に映るようだったから、は数えきれないほどのものを妖精へ与えてきた。
大切なものを失うのは悲しかった。だって大好きだからこそ、ずっと大事に持っておきたいと思うからこそ、大切なのだ。しかし妖精たちは自分たちの望みが叶わないとその鬱憤を訴えてくるように、へ危害を加えてきた。痛い思いをするのは嫌だ。怖いのも嫌だ。だからは全部「仕方のないこと」なのだと、自分に言い聞かせてきた。
は『妖精に愛される者』として、生まれてきてしまったから。きっと死ぬまで、自分は妖精とともに生き続ける。が大きくなっていつか他人から羨ましがられるほどの恩恵を得られるその時のために、まだ自分の気持ちでさえ上手く伝えられない幼い頃から、代償を明け渡さなければならない。たとえが望むとも望まなくとも、そういう風に決められてしまったのだから、仕方ないのだと思っていた。それなのに。
『全てを受け入れることだけが、正しいわけではない』
レオナはを助けてくれた。が『今』何も得られていないのに一方的に何かを奪われることを、レオナは理不尽だと言ってくれた。あのときは、確かにレオナに救われたのだ。
己が理不尽だと思うのならば、理不尽だと思って良いのだと。自分の気持ちを『仕方ない』という言葉一つで誤魔化す必要なんてない。はどこか窮屈に感じていた妖精たちとの関係が、一気に開けた気がした。
この話は、以外の誰も知らない。
レオナとの出会いを話したことがある人たちにも、祖父にも、レオナ自身にさえも話していない。話す気もなかった。何故なら、あのとき確かにの生き方を変えてくれたレオナへ抱いたの気持ちは、だけの『大切なもの』にしておきたかったから。
無論、レオナがにとって命の恩人であるという事実そのものは、今後も積極的に広めていくつもりだ。
「ねぇ、君が知ってるおじさんのこと、僕にも教えてくれる?」
「もちろん。チェカ様も、チェカ様が知ってるレオナさんのこと、私に教えて欲しいわ」
チェカと。同じ男に憧れている二人は、顔を見合わせて笑った。
* * *
中庭の前の廊下を通りがかったラギーとレオナは、少し離れた位置から聞こえてきた笑い声にどちらからともなく足を止めた。その声は、チェカとのものだ。
「一緒にいるのチェカくんじゃないスか。あの二人いつ知り合ったんスかね」
「……知るかよ。行くぞ」
「声かけてあげないんスか?」
何でわざわざ。当然のように訊かれて、思わず眉を寄せる。
「チェカくん、またレオナさんに会いに来たんじゃないスか?」
チェカは度々護衛の目を盗んではレオナに会いに来ていた。最近は式典の準備などで忙しいらしくあまり見かけなかったが、それも落ち着いたので久しぶりにやって来たのだろう。何故中庭でと一緒にいるのかはわからないが。
楽しげに笑い合うチェカとは、年が近いこともあり光景だけ見れば仲睦まじい普通の男女だ。片方が王太子で、もう片方が使用人という立場を除けば。
「それじゃあ、レオナさんにチェカ様のこと伝えてみますね」
「ありがとう。おじさん、来てくれるかなぁ」
「うーん、機嫌次第ですかねぇ」
眉を下げて笑うに、チェカもおかしそうに笑う。チェカに手を振りこちらへと走ってきたが、柱の陰に佇むレオナとラギーの存在に気が付いたのは、数秒後のことだ。片手を挙げてにこやかに声をかけるラギーと、正反対の態度でそっぽを向くレオナ。はパチリと目を瞬かせた。
「いたなら声かけてくれれば良いのに」
「いやぁ、全くその通りで」
「チェカ様、レオナさんに会いに来たんですって。呼んでくるわね」
背を向けようとしたの右手を、レオナが掴む。むすりと不機嫌さを取り繕いもしないレオナの様子を見て、ラギーがため息を吐いた。
「今度フォローしてあげてくださいよ」
ひらりと手を振ったラギーが、チェカの元へと足を向けた。どうやら、レオナは会えないとでも伝えに行くようだ。
「レオナさんて、本当にモテるのね」
「……あぁ?」
突然素っ頓狂なことを言い出したに、レオナが怪訝な顔を向ける。
「だって、ファレナ様もレオナさんのこと大好きだし、チェカ様も本当にレオナさんのことが好きだって伝わってきたわ。レオナさんのこと、たくさん話してくれたのよ」
「待て。アイツから何を聞いた?」
「え、レオナさんの勇姿を主に」
「…………」
頭を抱えたレオナには気が付かず、は「マジフトの試合に出てたんでしょう? 録画を少しだけ見させてもらったのよ」と目を輝かせていた。
「やっぱり、会ってあげないの?」
「お前には関係ないだろ」
「関係は、ないけど……」
レオナが突き放すように言えば、は言葉を濁して目を伏せた。あれほどレオナに会いたがっていたらしいのことだ。チェカから彼とレオナの関係をどう聞いたかはわからないが、もしかしたらチェカと自身がレオナと会いたくても会えなかった十一年間を重ねているのかもしれない。しかし、とチェカとでは立場が違いすぎる。レオナとチェカは確かに叔父と甥の関係ではあるが、それ以上に王弟と現王太子という互いの地位がある。それこそ、血の繋がり以上に大きな意味を持つ関係だ。
チェカは幼い頃からレオナに懐いている。そして、そんなチェカを「王太子としての自覚が足りない」と揶揄する者もいる。人目もはばからず他者への憧れを口にし、護衛の目をかいくぐってまで自身の欲求を優先する姿は、次期国王という権力者の立場に相応しくないというのだ。特に、レオナが第二王子であるという立場もまた、それらを助長させた。レオナがチェカの感情を利用して、王太子である彼を脅かしてしまうのではないかと案じる声まである。
レオナは、チェカがレオナから王位継承権を奪ったことを快くは思っていない。しかしそれは、チェカ自身が悪いわけではない。レオナが生まれたときから、レオナの未来に『王になる』という可能性が無かったことも、チェカがレオナが持ち得ないそれを与えられて生まれてきたことも。全て、本人たちにはどうしようもないことだった。
だからこそ、レオナはチェカに対してどうこうするつもりは無かったし、その意思は今後も変わることはない。しかし王太子というかけがえのない立場のチェカを尊び扱う連中にとっては、やはりチェカとレオナの関係は受け入れづらいものであるらしい。
まだチェカが幼い頃は、そんな周りの声もあまり理解していなかったかもしれない。しかし成長するにつれ、少しずつチェカのレオナへ対する態度は変わっていった。レオナへ向けられる好意そのものは変わらない。しかし以前よりはるかに、チェカはレオナと会う際に人目を気にするようになった。まだ感情を抑えきれない部分も残ってはいるが、確実にチェカは王族としても成長していた。努力だけではどうにもならないことがあるということも、きっとすでに心得ている。そこがチェカとの大きな違いだった。今日だって、レオナが会えないとラギーから聞けば、チェカは大人しく引き下がることだろう。
しかしそんな事情を知らないは、まるで自分のことのようにしょげている。レオナは自分の目線より頭一つ分ほど下にあるの頭を、ぐしゃりと撫でてやる。は「子ども扱いしないで……」と不満げに訴えるが、その声にはいつものような覇気は無かった。
「ねぇ、レオナさん。聞いても良い?」
レオナが「内容による」とだけ答えれば、は何かに迷う素振りを見せた。そして上目でレオナを窺うと、おずおずと口を開く。
「レオナさんは、チェカ様のこと、嫌いなの……?」
会話の流れから言えば、の疑問はごくごく自然なものだった。レオナはどう答えたものか、思考を巡らせる。
確かにレオナは、王太子というチェカの立場そのものを憎んではいる。しかしやはりチェカ自身には何の非もないことも承知のため、人として嫌いかと尋ねられれば、答えは否だ。ファレナの陽気でレオナを構いたがる質をしっかりと受け継いでいるチェカとの性格の相性が問題ないかという問いではまた少々話が変わるが。それにチェカがまだ幼い頃は子ども特有の周囲を巻き込む奔放さに振り回されるのが嫌で避けていた節はあれど、今では彼もだいぶ落ち着いてきた。
レオナがを見下ろす。もまた、レオナの目をじっと見つめて待っている。レオナの答えを。レオナの気持ちを。はどんな言葉を想像しているのだろうか。どんなレオナを、期待しているのだろう。
尋ねてきた相手が大臣や貴族たちだったなら、嘘でも上辺だけでも、貴き国の至宝――未来の国王と国の繁栄を願う言葉でも返しておけば、満足するのだろうが。レオナはそっと目を伏せる。
「嫌いだな。アイツじゃなくて、不公平極まりないこの
は静かな声で「……そっか」とだけ呟いた。