* * *
レオナにエスコートされたどり着いたのは、式典で使われる王宮のバルコニーだ。眼下では国民たちがひしめき合い、王族たちの姿をひと目見ようと躍起になっている様子がわかる。
「レオナ様の横に誰か立っているぞ……!?」
「誰だ、あの女性は」
王族とそのパートナーが並ぶ席のすぐ下辺りから、戸惑いや歓喜が入り交じる声が聞こえてくる。同時に、初めてパートナーを連れ立って参列したレオナやへの好奇の視線がひしひしと突き刺さるのを感じていた。
「顔を伏せるな」
大衆の視線に気圧されるようについ下を向きそうになってしまったの背に、そっとレオナの手が添えられる。
「自分たちの仕える王族に加わるかもしれないやつがそうやって顔を下げていたら、舐められるぞ」
そうは言っても、実際にはただの仮初の関係ではないか。
しかしこの場に立っている以上、もう逃げることなどできない。それに、経緯はどうあれ結果的にはこの役を引き受けたのだ。一度引き受けたのならば、最後までしっかり役目を果たさなければならない。顔を上げ、は正面をしっかと見据える。覚悟を決めたの気配に、レオナが目を細めて笑った。
「そのまま胸を張って、前だけ見つめてろ」
隣にはレオナがいる。それを教えるかのように、レオナの手がの右手を力強く握った。
横に控えていた護衛に促され、二人は指定された席へと腰掛ける。腰を落ち着けたことで、ようやく一息つけた気がする。少しだけ余裕のできたは、きょろりと視線だけで周りを確認してみた。レオナやから少し離れた位置にはファレナと見知らぬ女性の姿がある。彼女がファレナの奥方、つまり王妃だろうか。凛とした横顔は真っ直ぐに前を見つめていて、とても美しい。そこからさらに奥の方に、と同い年くらいの少年の姿が見えた。
「あれが、チェカ殿下……」
肩ほどの長さの明るいキャラメル色の茶髪の三つ編みに、丸い大きなココアブラウンの瞳。美しさが際立つレオナとは系統の違う、可愛らしい顔立ちをしている。ベールで顔が隠されているのを良いことに無遠慮にジッと観察していると、視線を感じたのかチェカがこちらに顔を向けた。
ベール越しに、パチリと二人の視線が絡まる。
「…………」
「…………」
チェカが驚いたように目を見開いた。次いで、興奮した様子で遠目でもわかるほどに顔を輝かせた。何かを言いたげな口がはくはくと動くが、進行役の獣人に名を呼ばれ慌てて前へ向き直った。
今回の式典の主役であるチェカの挨拶が終わり、ひと仕事終えたとばかりに息を吐くチェカの顔が再びレオナたちの方へと向けられる。は思わず横のレオナに小声で話しかけた。
「レオナさん、チェカ殿下、さっきからすごくこっち見てくるんだけど……」
「放っとけ」
レオナはまるで知らんぷりである。視線の一つも返そうとしないレオナに、チェカは目に見えて落ち込んでいた。
それから式典はつつがなく進み、見せ場でもある花吹雪の演出で盛り上がる頃にはの緊張もだいぶ解れていた。カラフルな無数の花びらが空を舞い、笑顔でチェカの門出を祝う国民たちに降り注がれる光景はとても綺麗だった。そして、歓声を上げる数えきれないほどの人たちの顔は、皆一様に喜びで満ち満ちていた。チェカの新たな道のりを心から祝福している様子が伝わってきて、は頬を弛ませた。
途中、レオナの挨拶が始まった際にまたも注目を浴びることとなり体を強張らせたが、なんとか平静を装い乗り越えた。最後の国王陛下からのお言葉も終わり、レオナとはファレナたちに続いてその場から退席する。確か夜会までは少し時間が空くはずだが、この後はどうするのだろう。聞いていた予定を頭の中で確認するの手を、レオナがするりと離す。
「また迎えに来る」
「えっ、どこかに行くの?」
「着替えるんだから、当たり前だろ」
「え、着替え?」
「あ?」
噛み合わないレオナとの会話で、は初めて夜会用のドレスも別に用意されていることを知った。式典用のドレスを渡したときには、まだでき上がっていなかったらしい。どうやら式典の前にマキナとレオナが話していた衣装の話は、の衣装についてだったようだ。
護衛に案内された着替え用の部屋へが入ると、すでにマキナとフィーネが準備を済ませて待ち構えていた。にこにこと満面の笑みで迎えられたは、これから二人が納得するまでひたすらめかし込まされることになると悟り、ひくりと頬を引きつらせた。
* * *
「お待たせ致しました、殿下」
マキナが部屋の外へ声をかけると、すでに着替え終えて待っていたらしいレオナが室内に入ってきた。レオナは黒いタキシードに身を包んでいた。普段はゆったりとした服装が多いので気が付かなかったが、レオナは着痩せするタイプのようだ。すらりとした長身に沿ったジャケットのラインが美しい。
ぼんやりとレオナに見惚れていたに気付くと、レオナはにやりと愉快そうに口の端を上げた。
「似合うじゃねーか」
「……あの、肌、出すぎじゃない……?」
「そんなモンだろ」
濃色から淡色へと変わるグラデーションで染められたサテン生地でくるぶしまで隠れるAラインのドレス。レースで彩られたホルターネックの胸元。肘まで隠れる真っ白なグローブ。実際に肌が見えているのは二の腕だけなのだが、普段は長袖ばかり着ているはむき出しの腕が頼りなくて、なんだか落ち着かない。
式典の方は夕焼けの草原主体の行事のため、王族やそのパートナーは伝統衣装を纏うのが礼式だったそうなのだが、夜会の方は他国の者も多く参加するため、一般的なフォーマルな格好がドレスコードになっているらしい。
「さっきと違って今度は誤魔化しがきかねーからな。気張れよ」
レオナの言う通り、にとってはこれから待ち受けている夜会の方が本番だった。先ほどは昼間ということもあり、顔を隠すことが許されていた。しかし夜会ではそうもいかない。会場である大広間へ入る瞬間から、はベールの代わりに『第二王子のパートナー』としての仮面を被らなければならない。この日のために、一週間という短い期間ではあったができる限りの準備はしてきた。淑女の歩き方、微笑み方。ただアニーとともに積み重ねてきた時間を思い出し、それを実践すれば良い。自分は確かに向こう見ずなところもあるが、それは良く言えば度胸があるということでもある。
それに。は自身のデコルテを飾るペンダントを握ると、目を閉じてゆっくりと深呼吸する。心を落ち着けるように、一定のリズムで息を吸い、吐いて。が再び目を開けた時、目の前に差し出されている大きな手のひら。はその上に、右手を重ねる。
は一人ではない。
の隣には、ずっと憧れ続けた人がいる。
「今日一日だけ、私の手を引いてくれますか?」
優雅に笑みを浮かべてみせたに、レオナは満足そうに微笑んだ。
日が沈み、世界に薄闇の帳が下ろされる。微かに喧騒が漏れてくる扉の向こうから、レオナとの名を読み上げる声が聞こえる。高らかに鳴り響いたファンファーレと同時に開かれた扉の中へ、はレオナとともに足を踏み出した。
二人が会場に入った途端、左右から好奇の視線が絶え間なく突き刺さる。夜会には式典へ招待されていた者もいるが、その他にも夜会のみ招かれた貴人たちも多く参加している。レオナが今回パートナーと連れ立って参加することは事前に知れ渡っているそうだが、やはり皆驚きを隠せないようだ。ざわざわとどよめく貴族たちの声に、の口元がひくりと引き攣りそうになる。口角に力を込めてなんとか微笑みを保つことに意識を向けていただったが、逆にそれが仇となった。普段履いている靴より高めのヒールへの注意が逸れ、重心が外れた体はぐらりと傾きそうになる。しかしその前にレオナの手がの腰を抱き寄せ、なんとか事なきを得た。周囲の反応にも特に変化は無いので、どうやら気が付かれなかったようだ。安堵に息を吐いたは、視線だけを動かしレオナを見上げた。レオナはではなく、真っ直ぐに前だけを見つめている。お礼を言うにしても、今はまだ口を開けない。もレオナに倣い視線を正面へ戻すと、アニーからの教えを思い出しながらゆっくりと歩を進めた。
二人の入場が終わったら、次は国王夫妻とチェカの番だ。レオナとは先に王族用の席の元へ到着し、三人の到着を待っていた。の前を通り過ぎる際に目礼したファレナと王妃に続くチェカが、ちらりと視線をへ向けてくる。どうにも、のことが気になって仕方がない様子だ。隣でレオナがにしか聞こえない声量でぽつりと呟く。
「アイツ、あれほど表に出すなと言われてるのに……あとでまたファレナに説教されるぞ」
呆れたような言い方につい苦笑いを浮かべそうになって、慌てて顔を引き締める。入場した時と比べると向けられる視線は減ったとはいえ、それでもまだ何人もの人々がたちを見ている。きっとここで隙を見せてしまえば、困るのはレオナだ。
「先日もアリスエラ遺跡の調査で貴重な魔法道具を見つけられたとか」
「えぇ、とても珍しい逸品でした。今も専門機関で調査して頂いているところです」
「そういえば、マーキト神殿の調査にも殿下がご参加なさると伺いましたぞ」
「なんと、著名な研究者が挙って参加を望んでいると噂のあの神殿の調査に? それは素晴らしい」
「えぇ、本当に光栄です」
次々と挨拶へやって来る貴族たちとレオナの横で、は静かに微笑みながら佇んでいる。基本的に受け答えは全てレオナに任せ、は聞き役に徹するように打ち合わせていた。駆け引きに長ける貴族たちを正面から相手取るのは、には荷が重かった。ときおりレオナの横から話しかけられそうになるが、レオナが巧みに誘導して自分へ注意が向くようにしてくれる。
愛想笑いを崩さぬまま一通り挨拶を終えたレオナがボウタイを軽く緩め、給仕から受け取ったワインを喉に流し込む。には自然な流れでオレンジジュースが渡された。緊張で喉がからからに渇いていたは、差し出されたグラスをありがたく受け取る。良く冷やされた果汁の甘みとほど良い酸味が体へ浸透していく感覚に、はほうと息を吐いた。
レオナとが身を休めていると、不意に二人の周囲が騒がしくなった。正面の人だかりが割れ、中からファレナがにこやかに近づいてくる。
「レオナ、少しだけ良いかな」
ファレナに呼ばれたレオナが、チラリとを見やる。
「少し離れる。何かあったら呼べ」
「えっ……」
まさか置いて行かれるとは思わず、はつい不安な声を上げてしまった。眉を下げたに、レオナが数秒思案した後、顔を寄せて意地悪く笑いながら耳打ちする。
「今日の料理は美味いぞ。まだ食べられてなかっただろ」
暗に、料理でも食べて暇を潰していろとのことらしい。あからさまな子ども扱いに、が唇を尖らせる。
「そこまで食い意地張ってないわよ……食べるけど」
「食べるんじゃねーか」
レオナが喉を鳴らして笑う。「すぐに戻ってくる」との前髪を撫で離れていったレオナの背を見送ってから、はいそいそと料理が並ぶスペースへと足を向けた。そこは広間の端の方にあるため、余計な注目を避けるにもちょうど良い。大きなテーブルに並ぶ華やかな見た目の豪勢な料理に身を輝かせる。あまりがっついてしまうわけにはいかないが、レオナもああ言っていたことだし少しくらい楽しんでも許されるだろう。どれから手を着けるか悩むの横顔に、ふと影が差す。
「こんばんは、お嬢さん」
慌てて身を正して振り向けば、大きな丸い耳の獣人属の男がにこにこと愛想の良い笑みを浮かべながら立っていた。は一瞬悩んだが、ここで無視するわけにもいかない。声が震えてしまわぬように気を付けながら、微笑んで挨拶を返す。どうしよう。レオナはいつ戻ってくるだろうか。内心冷や汗の止まらないに気が付くこともなく、男は会話を続けようとする。
「いやぁしかし驚きましたな。いつもお一人でいらしていたレオナ殿下がまさかパートナー殿と一緒に来られるとは」
にこにこと一見人の良さそうな笑みを浮かべる男だったが、よく見ると目の奥は笑っていない。男の視線は、背丈はとさほど変わらないのにどことなくを上から見下ろしているような、自身の優位を信じて疑っていないようなそれだった。
「……このような貴重な場に同席させて頂けて、光栄です」
も男に負けじと愛想を振りまく。とにかく、この場は自力で乗り切るしかない。
「昼間はベールで顔を隠されていましたのでわかりませんでしたが、ヒト属の方だったのですねぇ。殿下とはどちらで?」
「レオナ殿下がご在学中の折に、ご縁がありまして」
男が『ヒト属』と口にした瞬間、男の目の奥におぞましいものを見た時のように、嫌悪の色が浮かんだ気がする。男との会話が進むにつれて、は胸の内に靄がかかっていく心地に襲われていた。と男の近くには誰もいないが、遠巻きに様子を窺っているのがわかる。招待客の中には獣人属も多い。距離があるとはいえ、会話の内容はきっと筒抜けだろう。ぼろを出してしまわないように、気を付けなければ。へその辺りで重ねた両手に、ばれないように力を込めて気合いを入れ直す。
「なるほど、では本日は夕焼けの草原の文化を学びにいらしたのですね」
「はい。以前から興味を抱いておりまして、レオナ殿下のご配慮を賜りましたの」
万が一、が返答を求められた際の設定も、用意はしてあった。嘘を吐いてしまうと後々にどんな影響を及ぼしてしまうかわからないため、近からずも遠からずといった内容だ。
「――――」
「あの、すみません、今何か仰いましたか?」
口の動きから男が何かを呟いたことはわかったが、その内容までは把握しきれず、は聞き返す。戸惑い気味に尋ねたに、男はスゥ、と目を細めた。
「これは失礼。ヒト属の方は我々とは違うお耳をお持ちでしたね」
どんなに鈍くても、男の言葉に含まれた悪意を感じ取ることは容易だっただろう。先ほどからの態度からもわかるように、この男はのことを快く思ってはいないようだ。言葉の端々に乗せられた小さな棘が、の胸にチクチクと突き刺さる。
「あぁ、もしやレオナ殿下もご自分とは異なる体にご興味がおありで貴方を? 殿下は研究熱心でいらっしゃいますからなぁ。殿下とはもう夜をともにされたのですかな」
唐突に投げられた下世話な質問に、の笑顔が固まる。つまり、レオナにとってはの体が研究対象としての存在でしかないのだろう、という言葉でもあった。
「……ッ」
今回限りのパートナーとはいえ、レオナは決してそんな目的のためだけに女性との関係を持つ人物ではない。だけでなくレオナ自身までもを侮辱する男の言葉に、の瞼の裏がカッと熱くなった。思わず反論しようと口を開いたの肩を、大きな手のひらが静かに抱き寄せる。
いつの間に戻って来ていたのか、を庇うように自身の腕の中に収めたレオナがにこやかに男と挨拶を交わす。
レオナとの距離が一気に近づいたことに、は驚きのあまりまたガチリと固まってしまった。厭味たらしい男の言葉に憤っていたはずのの思考は、自身の肩に添えられた手のひらの温度と、ほんのりと鼻をくすぐってくる甘い花の香りで完全に染められた。
「ちょうど殿下のお話をしていたところですよ」
「それはそれは。どのような?」
「殿下は異種族の方々との交友にも重きを置かれているようで、とても研究熱心な方だと」
「あぁ……なるほど。そうですね、我々とは違う感覚を持つ方々は我々とは別の視点で新しい思考や意見を教えてくれることがありますので。非常に、学ぶべきものがありますね」
「……左様で。それは素晴らしいですな」
にこりと笑みを浮かべたレオナに、男は同様に笑みを浮かべて別れの挨拶を述べるといそいそとその場から立ち去っていった。
「……あの、レオナさん、肩……」
「あ? ……あぁ、悪いな。誰かさんが怒りに身を任せて要らんことを口走りそうな気配を感じてな」
「ごめんなさい……私、つい」
どうやら、と男の会話はレオナにも聞こえていたらしい。
「別に良い。初めてこういう場に参加するお前がああいう輩に上手く対応できないのは予想してたしな。それにアイツは獣人属の信奉者だ。それなりの権力を持ってるから無下にもできないが、そもそも獣人属以外のことを十把一絡げに疎ましく思ってるような奴だからな。ヒト属には特に当たりが強いから、他の連中からもあまり良く思われてない」
眉を下げ見上げるの頭を、レオナは「あまり気にするな」と髪型を崩さないように軽く撫でた。
「それより、ちょうどいいからこのまま抜け出す口実にさせてもらうぞ。顔でも伏せて、具合が悪い振りしてろ」
「えっ」
の肩を抱いたまま、広間を横切って出口へと向かっていくレオナ。歩いていると何人かに声を掛けられたが、レオナはにこやかに一言二言返して話を切り上げ、さっさと会場を後にしてしまった。なんとも鮮やかな退場の仕方であった。聞けば、こういった場を途中で抜け出すことには慣れているらしい。それは素直に褒めてしまっても良いことなのだろうか。