花笑みのプローミッサ Chapter.1 花笑みのプローミッサⅠ 3-2

* * *

 その夜。一日の職務を終えたレオナは、人気のない中庭の一角で寝酒を嗜んでいた。

 庭と呼ぶことすら憚られるほど荒れた空間の中央には、水も枯れ苔まみれになった石造りの噴水が鎮座している。夜闇にぼんやりと浮かび上がる噴水の側には、傷んだ木製のベンチ。そこに腰掛けて見える景色は、華やかな色とりどりの花々でも、豊かな緑でもない。ただ年月の流れを感じさせるだけの、枯れ果てた植物たちの姿だ。

 月の光を浴びる色彩の無い植物たちは、酒の肴とするには相応しくない光景だとほとんどの者が考えるであろう。しかしレオナは、この場所で酒を片手に度々ぼんやりと物思いに耽ることがあった。

 東方の国では、月を眺めながら酒を飲む行為を月見酒と呼ぶらしい。以前調査の際に読んだことのある文献の内容を思い出しながら、レオナはちびちびと舐めていたグラスをぐいと呷る。背を丸めて座るレオナの横には、中身が半量ほどになったハーブの一種を原料としたリキュールの酒瓶と、炭酸水の入った水差しが置かれている。寝酒であるならばあまり飲み過ぎては体に障るが、今日はいつもよりもグラスに酒を注ぐ手が止まらなかった。

「――レオナさん?」

 静まり返っていたその場所で、不意に控えめな声がレオナの名を呼んだ。レオナは耳だけを声の方向へ向ける。

「こんな時間にどうした」
「少し寝付けなくて……」

 先客がいるとは思っていなかったのだろう。背の高い枯れ草の陰から戸惑いながら現れた声の主は、約二週間ほど前にはるか遠くの異国からやってきた少女だ。

 十一年前、まだレオナが学生時代を過ごしていた頃に、母校であるNRCで出会った幼い少女。当時の面影は在れど時を経た今では大きく成長し、今では一丁前に王宮で働こうと身一つで飛び込んでくるほどだ。しかし成長したと言っても、やはりレオナから見ればは少女でしかなかった。

「隣、良い?」

 語尾こそ質問の形をしていたが、はレオナの返答を待つ前に置いてあった酒瓶を避けてレオナの横に腰掛けた。

「アニーから早めに寝るように言われてんじゃねーのか」
「ん……私もそうしようと横になってたんだけど、目が冴えちゃったから。少し外の空気でも吸おうかなって思って」
「そうか」

 座ったまま腕を上げて伸びをするは、夜着にカーディガンを羽織っただけの姿だ。夕焼けの草原の夜は昼間と比べて大きく気温が下がる。レオナは小さく息を吐くと、自分が羽織っていた上着をの肩にかけてやった。

「良いの? レオナさんが……」
「風邪でも引かれると面倒だからな」

 それに、アルコールが回り体も程よく熱を帯びてきた頃合いだ。

「……ありがとう」

 はにかんだに、レオナは何も答えずに手の中のグラスを呷った。

「ねぇ、お酒、そんなに飲んで平気なの?」

 と話す間も、レオナの酒を飲む手は止まらなかった。一気に飲み干すことはしなかったが、少しずつ口に含んでは喉に流しまた口に含んで、という動作を繰り返しグラスを空けていくレオナに、が気づかわしげに声をかける。

「この程度で潰れるほどヤワじゃねーよ。立場上飲む機会も多いから、鍛えてある」
「でも明日に響いたり……」
「そのくらいの加減は見極めてる」

 むしろ明日が憂鬱でしかないからこそ、良い気分で眠りに就くために飲んでいるようなものだ。酒に溺れるつもりはないが、無駄に考え込んで眠りを妨げるような事態は避けられる。はまだあまり納得がいっていない様子だったが、問題ないと言い張るレオナに引き下がり、今度は興味の矛先をレオナの手の中に変えたようだ。

「それ、美味しいの? なんだか甘い匂いがするわ」
「おい、嗅ぐな。匂いだけで酔うやつもいるんだ。お前まだ未成年だろ」

 グラスに鼻を近づけたの顔を、空いている方の手で押しのけた。が唇を尖らせる。

「……その癖、変わんねーな」
「癖?」
「不満があると唇を尖らせるところ。子どもみてーにな」

 レオナがニヤニヤと目を細めれば、が今気づきましたとばかりに目を瞠り、慌てて自身の口を手で覆い隠した。の焦りようを見て、レオナはつい吹き出す。ジト目で睨んでくるを尻目にひとしきり笑うと、グラスに残っていた酒を一息に呷った。

「……もう子どもじゃないわ」
「子どもだろ。十八なんざ、俺からしたらじゅうぶん子どもだ」
「あの頃の貴方とそう変わらないじゃない」

 と出会った時、レオナはちょうど二十歳だった。

「そうだな。あの頃の俺も、まだ子どもだった」

 口元を歪めるように笑えば、が眉を寄せて不満げに見つめてくる。

「何だよその顔」
「……何でもないわ」

 何でもないと言いながらも表情を変えない辺り、レオナの何かが気に入らなかったようだ。に話すつもりが無いのであれば、レオナとしてはこれ以上詮索する気はない。話題を変えることにしたレオナが、に中庭の作業の進捗を尋ねる。

「えぇと、大体半分くらいかしら。最近はレッスンの方を優先してたから、あまり進んでなくて……式典が終わったら、またこの噴水の辺りから始めるわ」
「妖精は今もいるのか? ラギーがお前にくっついてきてるって言っていたが」
「いるわよ。ほら、ポケットの中に……あら?」
「どうした?」
「出るのを嫌がってて……ごめんなさい、無理強いすると怒っちゃうから……」
「あぁ、別に構わん」

 妖精は人前に出たがらない種族が多い。には気を許していても、レオナに姿を見せるのは嫌なのだろう。あるいは。

「なんだか、いつもより嫌がってるような……」
「――何かを、察してるのかもな」

 ポツリと口をついて出てしまった言葉だったが、は内容までは聞き取れなかったようだ。

「なぁに? 今何か」
「何でもねーよ」

 新しく酒と炭酸水をグラスの半分ほどの高さまで注いだレオナが、徐に背後の噴水の中へとグラスの中身だけを振りかけた。噴水の中央部辺りで、パシャリと音が鳴る。

「何してるの?」
「水やり」
「……レオナさん、酔ってる?」
「酔ってねーよ。冗談だ」

 本気で案じるような目で見上げてきたに、あくまで素面だと主張する。事実、レオナは酔ってなどいない。

 レオナが飲んでいた酒は、古来より魔除けの効果があるとされているものだ。酒の原料にも使われている花を咲かせる木は、一部の魔法士が使う杖の材料として使われることもある。

 魔に属する妖精は、同じく魔に属するものを本能的に避けたがる節があると何かの書物で読んだ気がする。もしの妖精が何かを警戒しているようならば、気休め程度にはなるだろうと撒いてみただけである。もっとも王宮の敷地内は全て特殊な結界に囲まれているので、それらの可能性は低いだろう。王宮は正式に認められたルート以外からは人間に限らず魔力を持つ全ての生物がおいそれと侵入できないようになっている。

 ただし、の妖精は例外だ。仮とはいえと契約している以上、魔力同士の繋がりがある。そのため、がラギーに導かれ王宮へ踏み入ることを認められた時点で、妖精も同様に受け入れられたのだ。

「…………」
「レオナさん?」

 突然黙り込んだレオナを不審に思ったのか、が覗き込んでくる。

 距離が近づいたのを良いことに、レオナがの肩に頭を乗せようとした。しかしいかんせん、小柄なの肩はずいぶんと低い位置にあった。思ったよりも頭を下げねばならず、レオナは思わず「もっと背伸ばせよ」と不満を零す。

「ま、まだもう少し伸びるわよ! ……たぶん!」

 憤るに、レオナがくつりと喉を鳴らして笑った。レオナが揶揄った時に返ってくる反応は、まさしく子どものそれだ。体が成長していても、は少女のままだった。年下の少女を揶揄って楽しんでいる時点でレオナも幼いと言えなくもないのだが、レオナは自分のことは棚に上げている。

「ねぇ、眠いなら戻った方が」

 の言葉が不自然に途切れる。レオナがの首元に鼻を埋めたからだ。がガチリと固まった気配を、レオナは空気の振動で察した。すり、と鼻で擽るよう身を寄せれば、柔らかな新緑の香りがした。それはレオナがNRCでの学生時代に、おそらく寮の自室の次に多くの時間を過ごしたあの空間を思い起こさせた。は体を強張らせたまま、なんとか腕を動かしてレオナと距離を取ろうと試みている。

「お前、どうしてこんなところに来たんだ?」
「え、だから寝付けなくて――」
「違ェよ」

 顔を上げたレオナが、を見下ろす。

「馬鹿正直に、子どもの頃に交わした口約束なんざ信じて。俺が『あんなのただの気まぐれで、本気じゃなかった』なんて言ったら、どうするつもりだったんだ?」
「…………」

 レオナとしては、が『約束』を覚えているかどうかは半信半疑だった。覚えていたとしても、果たしてが自身の元へ来るかどうかも、レオナにはわからなかった。何せは幼かった。『可能性』という未来をその小さな体に抱えたは、選ぶことができた。自分がなりたいものも、自分が生きる場所も自由に選べたのに。はわざわざ、レオナの元へ来ることを選んだ。

 レオナからさんざん可能性を奪い何も選ばせてくれないくせに、今もなお第二王子という重しを背負わせ続けるこの王宮ばしょへ。ははるか遠くの国から海を越え、見知らぬ土地や文化、自分とは異なる民族が住まう地に、たった一人で飛び込んできた。

 レオナからの問いにしばらく思案していたは、レオナと視線を合わせるとはっきりとした口調で答えた。

「それならそれで、仕方ないわ」
「……仕方ない?」
「もしレオナさんにとってあの約束は本気ではなくて、断られてしまっても。レオナさんが本気にしてくれるまで、私は頼み続けたわ。私は約束したから貴方の元で働くと決めたんじゃない。逆なのよ。レオナさんの元で働きたいと思ったから、レオナさんとの約束を利用したのよ。きっと……約束が無かったとしても、私はここへ来たわ」
「どうして……そこまで俺にこだわる?」
「だって、貴方は私を助けてくれたから」
「恩返しってか? ずいぶんと殊勝なこった」
「恩返し、なのかしら」

 が人差し指を唇に当てて、うーんと唸る。

「だって、これは私の我儘だもの」

 目を細めて、微笑むように口元を弛める。

「一方的で、独善的で、エゴそのもの。私が、貴方の役に立ちたいって思った気持ちを押し付けてるだけ。その上で許されるなら、庭師としてそれを叶えたいのよ」

 レオナは眉を顰める。やはり、の考えは理解しがたいものだった。そもそも、が自分の人生を賭けてまでレオナに執着する理由にすら、納得できないのだ。

 よほど冷酷無比な人間でもない限り、目の前で子どもが連れ去られそうになればきっと何とかしようと動くだろう。妖精に関わって子どもが行方不明となる事件は、稀にではあるが確かに存在した。しかし連れていかれた子どもがどうなるのかすら不明で、家族の元へ戻ってこられたという例も聞いたことがない。それを知っていたからこそ仕方なしに助けただけであって、普段の自分はメリットも無しにわざわざ他人を助けてやるほど優しくはない。

 もしあの時、を助けたのがレオナではなかったとしても。はその人物のために自身の人生を捧げるのだろうか。とんだお人好しである。そんな生き方をしていたら、人生が何回あったとしても足りやしないだろう。

 そんなことを考えているレオナにも気が付かずに、は無邪気な顔で話し続ける。

「私、今とっても幸せよ。こうして、ずっと夢見てた場所で、レオナさんの元で、やりたかったことを叶えるためのチャンスをもらえてる。それは全部、貴方のお陰。レオナさんがあの時、私を守ってくれたから……私の『未来』を守ってくれたから。今の私が在るんだわ」

 レオナは目を細める。の言葉を、考えを、表情を。レオナはきっと一生、理解などできないであろう。理解したいとも思わなかった。の織り成す全ては、の純真さが生み出すものだ。そしてその美しい心根は、きっと誰もが羨み好ましく思うもの。しかしレオナはその美しさを欲しいとは思わない。レオナが生きる、欲にまみれたこの世界では、それはきっと枷にしかならない。自らの損すら気にも留めずに誰かのために尽くすような献身的な生き方は、きっとすり減るばかりで何も得などしない。想像しただけでも、面倒だ。しかし当のは。

「ありがとう、レオナさん」

 ふわりと。春の花が綻ぶように、とても柔らかく笑った。その笑顔は目を逸らしてしまいたくなるほどに。

 ただただ、眩しかった。

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