花笑みのプローミッサ Chapter.1 花笑みのプローミッサⅠ 3-1

 真っ直ぐに視線を前へ向け、部屋の中央をがゆったりと横切っていく。視線は斜め前へ。背筋を伸ばし、やや顎を引いて。体が上下左右に揺れてしまわぬように。静かに、優雅に――は部屋の端までたどり着くと、壁一面を覆う鏡の少し手前でピタリと足を止めた。を横で見守っていたアニーがパンと手を叩く。


「結構です。この調子なら明日は何とかなりそうですね」
「本当っ!?」

 振り返りながら思わず口を開けて笑ってしまったの肩を、アニーが手に持っていた指示棒でペシリと叩く。

「大口を開けて笑わない。言葉遣いも」
「は、はい! すみません!!」

 が慌てて前に向き直り姿勢を正すと、アニーは眉を下げて小さく息を吐いた。

「ひとまずは問題なさそうですが、所詮は付け焼き刃ですから。あまりお気を抜かれないよう、お気をつけくださいな」
「はぁい……」

 しょんぼりと項垂れたに、アニーが苦く笑う。

「貴方のその感情豊かな素直なところも魅力ではありますが、貴族社会はそれを許容してくれる方ばかりではありません。隙を見せれば、容赦なく付け込んできます。殿下のためにも、貴方自身のためにも、ゆめゆめお忘れなきよう」

 人差し指を立てて忠告してくるアニーの真剣さに圧され、はコクコクと頷く。

 アニーからの指導が始まってから、今日で六日目。今回の舞台でもある式典は、いよいよ明日に控えていた。この六日間、はアニーから女性らしい歩き方や立ち方に始まり、食事のマナー、話し方や笑い方に至るまで、貴族らしい振る舞い方を学んでいた。それだけに留まらず、夕焼けの草原の歴史や文化についても、時間の許す限り叩き込まれた。がただの招待客であれば、ここまで気にする必要はなかった。しかし、今回は『第二王子のパートナー』としての役目を負っている。

 なお、が夕焼けの草原について学ぶ中で最も驚いたのは近衛兵の大半が女性だということだ。夕焼けの草原の男性は女性を尊ぶ文化があることは知っていたが、戦闘面においても活躍しているとは寝耳に水だった。

 アニーの「少し休憩にしましょう」という提案に、が大げさに息を吐いてだらりと座り込んだ。その様子にアニーが目を吊り上げたので、伸ばしかけた膝を慌てて抱えて取り繕うように背筋を伸ばす。いわゆる体育座りである。アニーは「そういう意味ではありませんよ」と呆れたようにため息を吐いた。

「椅子に座ってお休みくださいな。床の上では体も冷えてしまいます」
「だって椅子が遠いんだもの。足、痛い……」

 がむすりと唇を尖らせる。

 は午前の中庭の整備作業を終えた後、午後から夜にかけてはみっちりとアニーからの指導を受けていた。連日の疲労が募り、もはや部屋の中を移動するだけでも億劫なのだ。

 部屋と言っても二人がレッスンの場としているのは、ただでさえ平均的な広さからかけ離れている王宮の中でもとりわけ広い部屋の一つだ。この部屋はレオナたち王族の面々も過去にアニーを含む家庭教師らから指導を受けていた部屋らしい。歩き方からダンスまで、様々な用途で体も動かせるよう特に広く作られているそうで、部屋全体が一つのスタジオのように広々としている。入り口から見て左側の壁は全面が鏡になっており、実際に自身の姿を映しながら歩き方や立ち姿の確認ができるようにもなっている。アニーの言う椅子は、そんなだだっ広い部屋の奥、やアニーの位置からは正反対のところに置かれている。ひょっとすると二十メートル以上あるのではなかろうか。

「……明日、無事に乗り切れるかしら」

 が膝を抱き締めるようにギュッと抱えて呟く。はこれまでの人生で、一度も大勢の人の前に立つような機会は無かった。ただでさえ慣れない場で、いきなり王族のパートナーという大役を背負って臨まなければならないのだ。つい弱音を吐いてしまい、アニーも困ったように眉を下げる。

「殿下もできる限り傍についていてくださると仰っていましたし、今日までに学んで頂いたことを思い出して頂ければきっと大丈夫ですわ」
「でも、きっとたくさんの人に見られるわ」
「それは……そうですわね。殿下が女性と連れ立って参加されるのは初めてですから、良い意味でもその逆の意味でも、注目を浴びてしまうのは避けられないでしょうね」
「うぅ……本当に、どうしてこんなことに……」

 頭を抱え始めてしまったに、アニーはどうしたものかと頬に手を当てて首をひねる。は普段はあまり物怖じすることが少ない分、一度気持ちが沈んでしまうととことん思い詰めてしまうところがあった。

「ご不安はご自分で払拭して頂くことしかできませんし……そうですわ、景気付けに何か楽しいお話でもしましょうか」
「楽しい……?」
「えぇ、なので椅子のところまで移動しましょう?」
「はい……」

 差し出されたアニーの手を取り、が渋々立ち上がる。

 アニーはレッスン中こそ厳しい指導者ではあったが、休憩中やレッスン以外の時間はとても優しく接してくれる。口調や態度も、本番やレッスン以外では多少くだけていても叱ることはない。それも度合いによるし、本番やレッスンではきちんとこなせるという前提ではあるのだが。

 は自身の隣を粛然と歩くアニーをチラリと窺う。アニーは歩き方一つとっても、足の運びや姿勢、伸ばされた指先に至るまで、全ての所作が美しい。同性であるが思わず惚れ惚れとしてしまうほどだ。

「私も、頑張ればアニーさんみたいになれるのかしら」
「私ですか?」
「私、背も高くないしスタイルだって良いわけじゃないし、がさつで単純で、いつも子どもっぽいって言われるの。アニーさんみたいに、大人っぽくて綺麗な人になりたいわ」
「あら、私は元気で愛らしい女性もとても魅力的だと思いますけれど。それに貴方を見ていると昔のチェカ殿下を思い出すようで、なんだか懐かしいですわ」
「……チェカ殿下、今年で十六歳なんでしょう。昔って、やっぱり子どもっぽく見えるってことじゃない」

 がむぅと唇を尖らせれば、アニーがクスクスと可笑しそうに笑う。その笑い方でさえ、上品という言葉を体現している。

「ねぇアニーさん。アニーさんは、どのくらい王宮にいたの?」
「そうですね、確かチェカ殿下が十二歳になられる頃まではお務めさせて頂いておりましたわ」
「じゃあ、割と最近なのね」
「えぇ、どうかされましたか?」
「……レオナさんがね。ときどき変な笑い方、するの。あれって昔からなのかしら」
「変……とは、具体的にはどのような?」

 がレオナのその笑みを初めて見たのは、が王宮へやって来た日のことだ。それからも、レオナと話している時やレオナが他の誰かと話している中で何度か目にしたことがある。説明を求めるアニーに、はレオナの自嘲めいた笑みを思い出しながら言葉を探っていく。

「笑ってるんだけど、やけっぱちに、なげやりになってる時みたいな……上手く言えないんだけど、そうね、馬鹿馬鹿しいとか、くだらないって吐き捨てる時みたいな目をしてる」

 あくまでの所感でしかないが、出会った頃のレオナはそんな笑い方はしていなかったはずだ。あの時は幼かったし、十一年も経っている。ラギーからも言われた通り、思い出補正がかかっている可能性だってある。しかしそれでも、自分で自分を蔑むような目をするレオナを見るたびに、は胸が詰まるような気持ちになるのだ。まるで、じりじりと少しずつ身を削られていくような心地になる。

「あいにく、特に思い当たることはございませんわね……」

 眉を下げ謝るアニーに、が気にしないでくれと首を振る。

「私ここに来てから、レオナさんってあんまり笑わないし、しかめっ面ばかりだなって思ったんだけど」

 が見るレオナはいつも眉を寄せて疲労を湛えた顔をしている。忙しさのせいなのだろうが、せっかくの美貌が台無し――ではなく、憂いを帯びてより艶やかな雰囲気が増している辺り、見事なものだと思う。しかしときおり、そのくたびれたレオナの顔が和らぐことがあるのだ。それは仕事の合間にひと息ついて紅茶を飲んだ瞬間だったり、執務室の窓から入り込む風に頬をくすぐられた瞬間だったりといった、日常の何気ない瞬間だ。眉間に深く刻まれたしわが、わずかに緩まる時がある。その瞬間に立ち会えた暁には、までつられて頬が弛み心は何時間でもずっと浮き足立ってしまう。 

「私、レオナさんが妖精じゃなくて良かったと思うわ」
「妖精、ですか?」

 が自身の胸元にそっと手を当てながら、アニーの問いに頷く。が他の人間と一緒にいる時、妖精が自ら姿を現すことはほとんどない。妖精は元来臆病で、警戒心が強い。今もアニーの前には出たがらず、の服の中で息を潜めている。

「だってレオナさんみたいに気持ちがわかりづらい人と言葉が通じなかったら、仲良くなるのにとても骨が折れそうだもの」

 の『仲良くなる』という言葉に、アニーがパチリと瞬いた。

「私が知ってる妖精はね、言葉が通じないから代わりに表情とか動作をよーく見るの。妖精は自分の気持ちを素直に表に出してくれるから、今どんな気持ちなのかとか何を考えているのか、一緒にいてちゃんと見てればなんとなくわかってくるのよ」

 もちろん、正解がわかるわけでもない。しかし、それが間違っていないかどうかは、妖精の様子を見守っていれば自然とわかってくる。

「そういうものなのですね。確かに殿下はご自分のお気持ちを隠されるのがとてもお上手ですから、それを読み取ろうとするのは大変そうですわね」

 苦笑いを浮かべるアニーに、は両手を合わせてあるお願いをしてみることにした。アニーがレオナの家庭教師をしていたと聞いた時から、もし機会があればお願いしたいと思っていたことがある。

「そのぅ……一週間、頑張ったし、アニーさんが知ってるレオナさんの話、聞かせてほしいな、なんて」

 はあわよくば、レオナの子どもの頃の話を聞けたら良いなと考えていた。

「お話するのはやぶさかでないのですけれど……それはレオナ殿下がいらっしゃらない時の方がよろしいかと思いますわ」
「え?」

 アニーの言葉に目を瞬かせたの頭に、ズシリと重い何かが乗せられる。

「慣れないお作法のお勉強でひぃひぃ言ってるかと思えば、ずいぶんと余裕そうじゃねーか」
「レオナさん!? 何でここに、って……重い! ちょっとっ」

 どうやら腕を置かれているようで、の首が重みに耐えきれず前へと傾く。はレオナから距離を取ろうともがくが、力の差のせいかレオナの腕はびくともしなかった。横から顔を出してきたレオナをが不満を全面に出して睨むも、どこ吹く風だ。を無視して、レオナはアニーに声をかける。

「悪いな、任せきりで」
「とんでもございませんわ。殿下から頂いた大事なお務めですもの」
「調子はどうだ?」
「えぇ、ひとまずは問題ないかと。殿下、お時間は大丈夫ですの?」
「あぁ、少ししたら戻るが、様子見がてらこれを届けに来た」

 レオナが抱えていた大きな箱を下ろし、にも中が見えるように開ける。箱の中身は、綺麗に仕舞われた絹の布地だ。ようやくレオナから解放されたが食い入るように箱の中を覗き込む。その布は部屋の照明を受け、キラキラときめ細やかな光沢を発している。

「綺麗……」

 ほぅ、と思わず感嘆の声を漏らしたにレオナが満足げに口の端を上げる。

「広げてみろ」
「良いの? ……わぁ!」

 レオナの言う通りにが布を広げてみると、それはの体格に合わせて仕立てられたドレスだった。一枚の布を巻き付けて着るタイプで、端をウエストの辺りの布で結んで留めるようだ。襟はカシュクールで袖口はノースリーブの形。ナチュラルカラーで全体的にシンプルなデザインだが、裾に刻まれた紋様やところどころにあしらわれた刺繍はとても精巧で美しい。それに加えて、ドレスに合わせたデザインベールも一緒に入っていた。ベールは顔だけでなく頭の形も隠せるようになっている。これでが獣人ではないことを誤魔化す予定だ。

 は三日程前、仕立て屋の婦人に体中のサイズを採寸された時のことを思い出す。婦人は興奮した様子で「必ずや殿下をも唸らせてしまうほどの一品に仕立ててお嬢様を輝かせて差し上げますわ!!」と息巻いていた。その時の婦人の迫力はすさまじかった。採寸を始める際には頭の真上にあったはずの太陽が、全てが終わる頃にはすっかり沈み切ってしまっていたことを思い出しが遠くを見つめる。あの時は、本当に大変だった。実際に大変だったのは作業をしていた婦人の方であろうが、もずっと立ちっぱなしで体中のサイズを測られ、何十種類もの布を宛がい色を確認したり、デザインのイメージを掴むためにと婦人が持ってきていた既製品の服をこれまた何十着も着替えさせられたのだ。さすがに、全く疲弊しないわけがなかった。

「着てみろよ」
「良いの!?」
「そのために持ってきたからな」

 レオナはひらりと手を振ると「外にいるから、終わったら呼べよ」と言い残して部屋の外へと出ていってしまう。

 アニーに手伝ってもらい何とか着てみると、それはの体にピッタリのサイズだった。ウエストを絞ると裾がフレアスカートのように広がるタイプだったようで、がくるりと回れば動きに合わせてスカートの裾もふわりと舞う。

「せっかくですから、髪も簡単にまとめましょうか」
「ありがとうアニーさん!」

 提案してくれたアニーがの髪をゆるく編んでくれている様子を横目で見ながら、はついニヤけてしまう口元を抑えるのに必死だった。普段からあまり華美な格好をすることはなくとも、年頃のとしてはやはり着飾ること自体は好きなのだ。

「へぇ、様にはなってるな」

 アニーに呼ばれ部屋に戻ってきたレオナは、を見ると感心したように口にした。しかしアニーはその言葉だけでは納得がいかなかったようだ。

「殿下、そこはしっかり褒めて差し上げてくださいな」
「……似合ってる」
「ふふ、ありがとう!」
「ほら、こっちも被ってみろ」
「わぷっ、ちょっと、急に乗せないでよっ」

 レオナが乱雑にベールをの頭に押し付けてくる。突然顔を塞がれたがわめくが、レオナはニヤニヤと笑うばかりだ。

「……ふふ」

 そんな二人に、アニーが思わずといった様子で笑みを零す。レオナとから不思議そうな視線を向けられたアニーは、誤魔化すように口元を指先で覆った。

「あぁ、すみません、少し意外だったものですから……」
「意外?」

 首を傾げたに、アニーが笑いかける。

「レオナ殿下がそうもはしゃがれているお姿は私、初めてお目にかかりましたわ」

 アニーの言葉に、とレオナはパチリと目を瞬かせ顔を見合わせた。「はしゃいでたの?」と純粋な目で尋ねるから、レオナは罰が悪そうに目を逸らした。どうやら図星らしい。

「このまま少し練習してみましょうか」
「じゃあ俺はパートナー殿の練習の成果でも見学させてもらうとするか」
「え!?」
「なんだよ、問題あるか?」
「う、問題というより、見られてると緊張するんだもの……」
「明日は俺どころか数え切れんほどのやつらに見られるんだぞ。そんなんで大丈夫なのかよ」

 レオナの呆れたような言葉を受け、がそっと目を逸らす。

「殿下、あまり不安を煽らないで差し上げてください」

 またしてもアニーから窘められ口を噤んでしまったレオナに、が堪らず吹き出した。レオナもアニーには頭が上がらないようだ。

 そのまま先ほどのようにウォーキングの練習を始めただったが、レオナの視線が気になりどうにも集中できずにいた。アニーから度々お叱りを受けるたび、横からはレオナの押し殺した笑い声が聞こえてくる。は笑い声の主をじろりと睨み付けた。

「ほら、よそ見はいけませんよ。前を見て、集中してください。もう一度、最初からやり直しです」
「はっ、はい!」

 またしてもアニーから注意されたを、レオナがくつくつと喉を鳴らして笑う。は睨み付けたい衝動に駆られたが、横でアニーが目を光らせているのでただ前をまっすぐ見つめることしかできなかった。

 スタートの合図でアニー手を打ち鳴らした音を聞いたは一度大きく息を吸うと、心を落ち着かせるようにゆっくりと時間をかけて息を吐く。全て吐ききったところで、真っ直ぐ前に視線を向け、一歩足を踏み出す。三メートルほど進んだところで、を見守っていたレオナが不意に動いた。

「レオナさん?」

 の横に立ったレオナが、そっと右手の手のひらを上に向けて差し出す。がおずおずと左手をレオナの手に乗せると、レオナは自然な動きで左側に立つと、足を止めてしまっていたを誘導するようにゆったりと歩き始めた。

「このまま端まで歩くぞ。予行演習だ」

 明日の式典と同じように、レオナのエスコートで歩いてみろとのことらしい。レオナはの手を引きながら、遅すぎず速すぎず、の歩幅に合わせて進んでいく。

 やがて二人の足は、鏡の前でピタリと止まる。綺麗に着飾られた自身の横で、手を取るレオナの姿。本番用のドレスに着替えたと違い、レオナは普段と同じ装いだ。にも拘わらず、そこに立っているだけで目を引く華やかさがあった。

 背の高さはもちろん、上質な生地の襟元や裾に紋様を散りばめた衣装から伸びる手足は男性らしい骨格と均整の取れた筋肉が美しいラインを描く。いつもはだらりと力を抜いているせいで背も丸まりがちだが、今はシャンと背筋が伸ばされ、真っ直ぐに前を見つめる視線は力強い光を発している。横に流され緩く編まれたチョコレートブラウンの髪が、柔らかく輝きを放つ。

 絵画の中から出てきたような美しさに加え、堂々たる風格をも見せるレオナ。その右手に握られた自身の手を目に映したは、あることに気が付きパッと手を離した。

 レオナが訝し気にを見下ろす。は自身の両手を揉むように擦り合わせると、レオナの視線から逃れるようにそろりと背中に回した。

 どれだけ着飾ったところで、全てを取り繕えるわけじゃない。

 の手は職業柄常に植物や土に触れているため、酷く荒れている。それを知ったアニーからは、指導が始まった後早々にケア用のハンドクリームを渡されていた。王家御用達のブランドのクリームを毎晩丁寧に塗りこんでいたので多少はましになったが、それでもやはり貴族の手からは程遠い見た目と状態である。指先もかさついており、直に触れたレオナもきっと気が付いているはずだ。

 綺麗な衣装とはちぐはぐな自身の体に、これまでは気にも留めていなかったの中で急激に恥ずかしさが湧いてきたのである。もじもじとし始めたをじっと見つめたレオナが、わずかに首を傾ける。拍子に、レオナの柔らかそうな髪が顔の線に沿って流れた。

「手、気になるのか?」
「……少し、ね。せっかくこんなに素敵な服まで仕立ててもらったのに……それに……」
「それに?」
「お、王子様の隣に並んで立つ人が、こんな手をしているなんて、きっと皆、おかしく思うわ」

 顔を伏せてしまったに、レオナがため息を吐く。そして俯いているの手を取り、恭しく持ち上げる。が戸惑い、目を泳がせた。

「れ、レオナさ」
「この手には――」

 レオナがの手を口元に引き寄せる。

「お前の『十一年間』が詰まってるんだろう。それのどこに恥じる必要がある?」

 かさついた小さな指先へ、まるで愛おしいものに触れるように優しく口付ける。

「それに、お前の目の前の男にも傷があるぞ。お前は俺のこの傷も、恥だと思うのか?」
「ッそんなことない!」

 食い気味に否定するの勢いに、レオナが目を細める。

「だ、だって、その傷にだってちゃんと負った理由があるんでしょう? それも知らずに、笑ったり、馬鹿にしたり、そんなこと絶対にしないわ」
「わかっただろ。気にしすぎるな。堂々としてりゃあ良い」
「ん……」
「それに、この国じゃ傷は勇敢さの証とされてんだ。それを忘れて笑うような奴のことなんざ、気にするだけ無駄だ」

 肩を竦めたレオナが、繋がれた手を見下ろす。目線の高さは違えど、レオナに手を取られる姿はまるで、あの時のようだ。ふとそんなことをの心のうちを読むように、レオナが同じ言葉を述べた。

「あの時みたいだな」
「ぁっ……」

 何の気なしに口にしたレオナに、が目を見開く。レオナも覚えているのだ。まだレオナのことを本物の王子であると知らなかった幼い自分が、生まれて初めて『心奪われる』という感覚を知ったその瞬間を。

 は自分の顔がみるみる熱を灯していくのを、文字通り肌で感じていた。先ほどまでのねっとりと心に絡み付いてくるような恥ずかしさとは違う。体がむずむずとするような、今すぐ駆け出したくなるような照れくささだ。

 は気恥ずかしさに耐えきれず手を引っ込めようとしたが、さらに強く握られてしまい抜け出すことができない。レオナの透き通るような美しい緑色が、を真っ直ぐに射抜いてくる。は縫い止められたように目を見開いたまま、瞬き一つすることも叶わなくなった。

「この手を引ける栄誉を、くださいますか?」

 の腰を、レオナのたくましい腕が抱き寄せる。

「――レディ」

 耳元で息を落とすように囁かれたところで、の羞恥は許容量を超えた。かくりと腰が抜け、傾いたをレオナが力強く抱きとめる。二人の様子を見守っていたアニーが、口元を手で押さえて微笑ましげに頬を弛めた。

「アニーさぁん……」
「あらあら」

 半泣きで助けを求めたにアニーがクスクスと笑みを零す。

「殿下ったら、罪作りな御方ですこと」
「んな腰を抜かすほどかァ?」

 の反応を大げさだと感じたらしく呆れかえっているレオナに、が顔を真っ赤に染めて「こういうの慣れてないのッ」と声を荒げた。



「あれでどうして恋人の一人もいないのかしら」

 レオナが去り再びアニーとの二人きりに戻ったレッスンルームで、が不思議そうに呟く。

「レオナさんほどの人なら、引く手あまたでしょうに」
「あら、殿下は女性を尊重してくださいますが、誰の手でも引いてくださる方ではありませんわよ」
「そうなの?」
「えぇ、殿下は社交の場でも多くの女性とお話されますが、中にはあわよくば殿下に見初められたいと色目を使い近付いてくる女性も多いものですから。そういう方へは、建前上は紳士的に接していても一定の距離以上には近付けさせませんもの」
「へぇ~。なんだか、大人の世界って感じね」
「ですので、貴方とお話されてる殿下がとても楽しそうで驚きましたわ。まるで、童心に帰られたようなお顔をされていて」
「やっぱり、子ども扱いしてるのよ」
「ですが、好ましく思われてるのは確かだと思いますわ。殿下は好悪がはっきりされている方ですから」

 苦笑いでを慰めようとしてくれるアニーに、は空笑いを浮かべることしかできなかった。

「それに、新鮮なのかもしれませんわね」
「新鮮?」
「王宮では貴方のように殿下へ気兼ねなく接する方は限られておりますので。なにせ第二王子ですもの。ご学友だったラギーさんですら、ある程度の線引きはされておられるようですし。もしかすると、貴方と話される時間で息抜きなさっているのかもしれませんわ」
「確かに……私を揶揄ってる時のレオナさん、とても生き生きとしているようにも思えるわ」

 アニーの言葉は言い得て妙に思える。は神妙な面持ちで頷いた。ずっと気を張り続ける日々はさぞ息苦しいことだろう。もし自分が少しでもレオナの心を安らげることができているのなら、それはとても嬉しいことだ。そう、たとえその手段がを揶揄い反応を楽しむという、一回り以上も年上の男性とは思えぬ方法だったとしても。

「でもさすがに馴れ馴れしすぎるかしら……レオナさんも何も言わないし良いのかなってつい甘えてしまってたけど、他の人の目もあるし、レオナさんの威厳にも関わるんじゃ……」
「殿下が咎められていないのに、他の誰にも咎めることなどできませんわ。気になるようでしたら、公的な場ではもう少し辞を低くされるとかでしょうか。ですが貴方まで急に畏まってしまったら、殿下が寂しがってしまうかもしれませんわね」
「えぇ? あのレオナさんが?」
「はい、あの殿下が、です」

 二人で顔を見合わせ、クスクスと笑う。レオナがあの可愛らしい耳を伏せ寂しげにしょげている様は想像しづらい。しかしほんの少しだけ、見てみたいという気持ちも抱いてしまった。

「それでは、今日はもう一度だけ通しで確認して終わりにしましょうか。本番に疲労を残してしまってはいけませんし」
「はい!」

 いそいそとスタート地点である壁の前まで移動するの背に、アニーの呟きが届く。

「殿下は確かにお優しいですけれど、いつまでも手を引き続けてくださるほど、甘い方でもありませんのよね」

 振り向いたに、アニーは意味深な笑みを浮かべて返すだけだった。

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