* * *
翌日、は午後になってから支度を終えると、言われた通りレオナの執務室を訪れていた。小奇麗な格好でとの言だったが、あいにくはほぼ身一つの旅姿でこの国へやって来たため、かしこまった場に着ていけるような服はまだ持っていない。普段着として愛用しているシンプルなワンピース姿でレオナに伝えれば、の格好を上から下まで眺めたレオナは「そのくらいなら大丈夫だろう」と答えながらの襟元を正した。
そしてレオナに連れられ王宮のサロンへと案内されたは今、夕焼けの草原の国王と対面しながら二人きりでお茶を飲んでいる。
国王――ファレナの護衛も傍に控えてはいるが、とファレナとの会話に混ざることは決して無いので、実質二人きりと言って差し支えないだろう。てっきりレオナも交えての一席になると思っていたは、ファレナへの簡単な紹介を終えた後早々に仕事に戻ってしまったレオナを恨めしく思うほかなかった。急ぎの案件を片付けたらまた戻ってくるとは言っていたが、それがいつになるのかはわからない。
「急に呼び立ててしまって申し訳ないね」
「い、いえ。本日はお忙しい中お時間を頂き、誠にありがとうごじゃ……ございます」
緊張のあまりに噛んでしまったに、ファレナが苦く笑う。
「公的な場ではないから、そんなに固くならなくても構わないよ。レオナにこんなにも可愛らしい友人がいるとは知らなかったな。レオナとはどこで?」
「は、はい。レオナさ……レオナ殿下がナイトレイブンカレッジにご在学中の折にお会いしました。祖父が以前、学園の植物園で専属の庭師として働いておりまして、自分も何度か見学させてもらったことがあります」
「あぁ、なるほど。NRCの植物園は大層立派なものだと耳にしている。お祖父さんはさぞや素晴らしい職人なのだろうね」
「恐縮です!」
自慢の祖父を褒められて、が喜ばないわけがない。返答に思わず浮かれた気配が滲んでしまったことに気づき、慌てて口を塞ぐ。ファレナはそんなを見て、微笑ましそうに目を細めた。
「君が良ければ、レオナが戻ってくるまでお祖父さんの話を聞かせてくれるかい? あぁ、できればレオナと出会った時の話も聞いてみたいな」
「は、はい!」
一国の主とは思えぬほどの親しみやすさで言葉を交わしてくれるファレナに、の緊張は徐々に解れていった。祖父の仕事や人柄について語る時も、つい熱が入ってしまい前のめりになってしまっていることに護衛が咳払いで暗に指摘するまで気が付かなかった。が慌てて謝ると、ファレナは気を悪くするどころか「お祖父さんのことをとても尊敬しているんだね」とフォローまでしてくれた。
主にが祖父や自身について話し、ときおりファレナがへ質問を投げるといった和やかな会話が進んでいき、やがてファレナたっての希望もあり、話題はとレオナの出会いについてへと変わっていった。
「それで、今でもはっきり覚えてるんです。私を連れ去ろうとした妖精から、こう、一瞬で防衛魔法を張って庇ってくれたレオナ殿下が、私を抱えて――」
「……君はレオナのことをとても好いてくれているんだね」
「え!?」
身振り手振りを交えレオナと出会った日の出来事を語っていたが動きを止め、ファレナの言葉に頬を赤らめる。
「あぁいや、変な意味はないんだ。お祖父さんのことを話す時もキラキラと目を輝かせていたけれど、レオナの話になっても同じくらい楽しそうに、誇らしそうに話してくれるものだから、嬉しくてね」
「……陛下もレオナさ、あ、すみません、レオナ殿下のこと、大好きなんですよね」
がファレナに笑いかければ、ファレナはぱちくりと目を瞬かせた。
「私が話すレオナ殿下の話を聞いてくださっているときの視線も、陛下がレオナ殿下の名前を呼ぶときの声音も、とても柔らかくて、とても優しいものです」
そしてそれらは、祖父が自分に向けてくれている視線と同じような温かさに満ちていた。
「……そうだね。私も、レオナのことを大切に思っているよ。兄として、家族として」
ファレナが体の前で組んでいた両手を崩し、姿勢を正す。
「だからこそ、あの子がどのような人物と関わっているのか、相手はレオナのことをどう思っているのか――それを知っておきたいと思うんだ」
が同意するように頷くと、ファレナが目を細めて微笑む。
「あの子はこの王宮で、何度も、何年も窮屈な思いをしてきた。第二王子という立場や権力を利用しようと企む者や、当時王太子であった私にあだなす存在として排除しようとする者。様々な人物が、あの子に近づいて、畏れた」
たとえいくら年月が過ぎ去ろうが、何も変わらない。レオナが王宮で過ごす日々を快く思っていないことを、ファレナは知っている。ファレナ自身の存在が、レオナを悩ませ苦しませていることも。
「レオナを疎ましく思う者は多い。だけど、レオナも確かに愛されているんだ。努力を敬い、実力を認めて、人柄を知って、あの子のために働きたいと、あの子の役に立ちたいと望む者も多いんだよ」
ファレナがにこりと顔を綻ばせる。
「君のようにね。さすがに身一つで王宮に乗り込んできた子は、初めてだったけれど」
「……すみません……」
クスクスと笑みを漏らすファレナに、は何も言えずにただ身を縮こまらせた。
「それじゃあ、今度は私がレオナについて話そうか。君も、レオナのことを知りたいだろう?」
「っはい!」
パチリと茶目っ気たっぷりにウインクしてみせたファレナに、が満面の笑みで答える。
ファレナはの知らないレオナのことを、たくさん教えてくれた。野菜嫌いなこと。日差しの下で眠るのが好きなこと。
レオナは幼い頃からチェスが好きであること。まだチェスを始めたばかりの頃、ファレナに勝負を挑むも負けてしまい、悔しさのあまりしばらくファレナとは口を利いてくれなかったこと。猛特訓の末、後日再び挑んできたレオナが見事リベンジを果たしたこと。それからはもう、大人相手にも負け無しだったこと。
「レオナさん、負けず嫌いなんですね」
「そうなんだよ。きっと、この王宮の誰よりもね」
が無意識にレオナのことを気安く呼んでしまっても、ファレナは何も言わなかった。在りし日に思いを馳せている様子のファレナは、ただ優しく微笑んでいるだけだ。
「あれは……父上が病で伏せることが増え始めた頃だったかな」
ファレナがテーブルの上に腕を置き、両手をキュ、と組んだ。
「レオナがユニーク魔法を発現させたんだ」
「ユニーク魔法……」
ユニーク魔法は、優秀な者が会得することができるとされている固有の特殊な魔法のことである。はまだ使うことはできないが、レオナは幼少期にはすでにそれを会得していたらしい。レオナの優秀さは、幼い頃から健在だったようだ。
レオナはいったい、どんな魔法を使うのだろう。
好奇心から詳細を聞いてみようと口を開きかけただったが、ファレナの表情を見て声を出すことができなくなった。
ファレナは何かに胸を締め付けられているかのように、何かを堪えるように、苦しそうな顔で唇を引き結んでいた。
「その頃から、段々レオナは私に笑いかけてくれることは減っていったなぁ」
寂しそうに笑ったファレナに、は何と声を掛けるべきかわからなかった。オロオロと視線をさ迷わせていると、ファレナの護衛とパチリと視線が絡み合う。思わず助け舟を求めてしまったが、護衛は目を伏せて首を横に振るだけだった。
「あ、あの――」
「陛下」
とにかく何かを言おうと発しかけたの言葉は、何かに気が付いたらしい護衛の声に遮られた。
「レオナ殿下です」
「あぁ、戻って来たか」
二人のやり取りとほぼ同時に、サロンの入り口の扉が大きな音を立てて開かれる。自身に集中する三人分の視線を平然と受け流し、ややくたびれた姿のレオナは長い上衣の裾を揺らしながらファレナとの元へやって来ると、の隣にどかりと腰を下ろした。
「お疲れ、レオナ」
「あぁ、疲れたぜ。どこかの誰かさんとは違って仕事が次から次へと舞い込んできてな」
レオナが再び合流した後の空気は、ファレナの気さくさのお陰で緊張が解れていたを再び萎縮させるにはじゅうぶんすぎるものだった。
嫌味を含めたレオナの物言いに、国王への対応としてはいささか問題があるのではないかとは心配になった。現に、ファレナの護衛はレオナの態度に対して心底不快そうな顔をしている。思わずレオナの服の裾をつまんだだったが、「別にいつものことだ」とため息を吐いたレオナが見てみろと顎で前をしゃくるので視線をファレナへ向けてみる。ファレナは眉を下げながらも「相変わらずだなぁ」と笑っていた。どうやら、ファレナ自身もレオナとの応酬には慣れっこのようだ。
そのまま少しレオナと言葉を交わしたファレナが、何かを思いついたようにポンと手を打った。
「そうだレオナ、今度の式典で彼女をパートナーにするのはどうだ?」
「式典?」
急に出てきた単語に、がこてりと首を傾げる。
「私の息子――王太子であるチェカのRSAへの入学が決まっていてね。それの式典が一週間後に開催される予定なんだよ」
「はぁ、入学……」
何か盛大にお祝いでもするのだろうか。国を挙げての入学祝いというのも、想像がつかない。
「RSAに入学すれば、しばらくは国を離れることにもなる。その前に国民への挨拶と顔を見せておくための式典だよ。もちろん、入学祝いも兼ねてはいるけれどね」
ファレナの説明に、はなるほどと頷いた。しかし何故突然、将来の国の主である現王太子の大事な式典に、部外者でしかないが参列するという話が出てきたのだろうか。その疑問は、レオナとファレナの会話ですぐに解決した。
「いつも式典に独りでしか参列しないお前を案じる声もあるから、ちょうど良いんじゃないか」
「こいつはそういうのじゃねぇよ」
しかし雲行きが怪しくなってきた気配を感じ、が顔を強張らせる。
「そうなのかい? その歳まで女性の気配が全く無いレオナが連れてきたというから、もしかしたらとも思ったんだが……」
「だから、俺が連れてきたわけでもないと知ってるだろ」
「彼女はレオナとの約束があったから来たんだろう? それなら、お前が連れてきたのと同じようなことじゃないか」
「コイツはコイツの意思で来たんだ。全然違う」
苛立ちを表すように段々と語気が強くなっていくレオナにがハラハラしながら二人のやり取りを見守っていると、不意にファレナの眼差しが真剣なものに変わる。
「レオナ」
諭すような口調で名を呼ばれたレオナは、煩わしそうに後ろ髪をかき乱して大きなため息を吐いた。
「王家の繁栄は、国の繁栄にも繋がる。そんな立場に身を置く者が、国民たちに余計な不安を与えるべきじゃない」
「お前もわかっているだろう」と続けたファレナに、レオナは舌打ちを返す。
「そんな一時しのぎで誤魔化せることでもないだろうが。それに、そもそもコイツは獣人じゃない。大臣どもが認めるものかよ」
「わっ」
唐突にレオナの手がの頭をぐしゃりとかき混ぜる。撫でる、というよりも掴むといった方が正しいような乱雑な手つきだ。
たまらず声を上げたを見かねたのか、ファレナがレオナの名を呼び窘める。それから「やりようはいくらでもある」とため息を零した。
「何も、本当に婚約者に据えようという話でもないんだ。一時しのぎといっても、可能性
「……それなら一度でじゅうぶんだろ。今回だけだ」
「え、レオナさ――」
「その代わり、夜会の方はすぐに抜けるぞ」
「うーん……まぁ、必要な挨拶だけ済ませてくれれば、構わないか」
どうやら、すでにの式典への参列は決定してしまったようだ。先ほどからレオナの顔は終始不機嫌なままで、対するファレナはにこにこと満足げである。あまりの急展開に、ははくはくと口を開閉することしかできなかった。
* * *
「それでは、一週間後の式典に向けて本日より礼儀作法を学んでいただきます」
「よろしくお願いします……」
レオナでさえ断り切れなかった国王の提案を、一介の使用人――しかも、試用という立場のが断ることなどできるはずもない。結局、一度のみという条件で本当にがレオナのパートナーとして式典への出席することが決まってしまった。
しかし一般家庭で育てられてきたには、当然貴族に求められる立ち居振る舞いなどというものは身に付いていない。仕方なく、式典までの残りわずかな期間で可能な限りの礼儀作法を学べとのお達しの元、レオナが幼い頃に教育を受けたという家庭教師からの指導を受けることとなった。
ファレナとの茶会を終えた翌日、は離宮ではなく王宮の一室を借りて件の家庭教師とさっそく顔を合わせることになった。今は現役を引退し隠居生活を送っていたというその人物を急に呼び立ててしまっただけでなく、一週間という短い期限で一般人のを淑女に仕上げるいう無茶な頼みを引き受けさせてしまったことがなんとも申し訳なく、はずっと頭を低くしていた。
「家庭教師のアニーです。短い間ですが、よろしくお願いしますね」
「よ、よろしくお願いします……!」
手を差し出されたは腰掛けていた椅子から勢いよく立ち上がり、アニーと名乗る目の前の女性の手を握り深々と頭を下げた。そのまま顔だけ上げ、ちらりとアニーを見上げる。
アニーは背が高く、すらりとした立ち姿としなやかな白い手足が美しいネコ科の獣人だった。年齢は五十代と聞いていたが、容姿も相まってずっと若く見える。長い黒髪を編み込んでまとめた頭の上で、先の尖った耳がぴくりと揺れる。
「内容は式典における礼儀作法、でしたね。まずは貴方がどの程度ご存じか見させていただきましょうか。時間も限られていますので、それからどのように進めるか決めていきましょう」
「はい……」
しおらしく頷くに、アニーは「あまり乗り気ではないのでしょうか?」と首を傾げた。アニーからの指摘に、は消極的な態度が表に出てしまっていたことに気づき、慌てて否定した。併せて、自身の後ろめたい心持ちについても説明する。しかし、アニーは自身に振られた難題についてはさして気にしていないと朗らかに笑った。
「貴方もあまりお気になさらないでください。むしろ私は嬉しいのですよ。一度は現場を離れたこの身でしたが、一時的にとはいえまたレオナ殿下のお役に立つことができるのですから」
「アニーさんはレオナ殿下の教育係を務めていらしたんですよね?」
「えぇ。彼はとても賢く、一度教えたことは次に会った時には全て完璧に理解している、とても優秀な教え子でした。少々捻くれたところがあるのが、玉に瑕ではありましたが」
眉を下げて困ったように笑うアニーに、もつられて苦く笑う。しかし気を取り直すように手を打ったアニーから告げられた言葉に、はひくりと顔を引きつらせた。
「レオナ殿下のパートナーとして出席される以上、生半可な姿を国民へ晒すわけにも参りません。残り一週間で、殿下の横に立つに相応しい所作を身に着けて頂きます。頑張ってくださいね」
にこりと笑んだアニーの目は、笑っているようで笑っていなかった。