砂まじりの風が、の髪を拐っていく。乾燥した風は肌をピリピリと刺激し、比較的湿潤な気候である賢者の島で育ったに、今自分がいる場所が異国であることを思い知らせてきた。
は現在、夕焼けの草原の首都とされる都市の一角にいた。
二十時間以上の長旅と入国手続きを無事に終えたがまず最初に向かったのは、広大な土地を誇る夕焼けの草原の中でも特に若い観光客に人気がある露店街だ。
色とりどりの宝石や布などの名産品を扱う店が所狭しと立ち並ぶそこは、人々の活気で大いに賑わっていた。
「えぇと……無事入国もできたし、次は――」
は肩から下げた小さめの鞄から携帯端末と紙の地図を取り出した。これから向かう目的地への道順を改めて確認しようと、端末でメモ代わりに使用しているアプリを立ち上げる。
現在地を確認しようと辺りを見渡すと、こちらの様子を見ていたらしい露店の店主らしき男と目が合った。男はにこりと商売人の顔で笑うと、店先に並んだ商品をへ薦め始める。
「お嬢さん、観光かい? 旅の記念にアクセサリーはどうだね。若い人が好きそうなものも色々揃えてるよ!」
「アクセサリー? わ、綺麗ね!」
が覗いてみた店先には、小ぶりの宝石で作られたネックレスやピアスなどの可愛らしいアクセサリーが並んでいた。素材も相応なものを使用しているからだろう、お値段もお手頃で手を出しやすく、若者が喜びそうだ。に声をかけてきた店主はどの品物が人気なのかを懇切丁寧に教えてくれようとしているが、一刻も早く目的を果たさないといけないには、あいにくゆっくりと商品を眺めている時間はない。
「ごめんなさい。どれも素敵なんだけど今は急いでるから、また今度ゆっくり見に来るわね」
「これからどこかへ行くのかい?」
「ええ、王宮に行く予定なの」
が答えると、店主はパチリと目を瞬かせた。
「王宮かい? 時期によっては観光客向けに開放している敷地もあるが、今の時期は確かどこも閉鎖していたはずだが……」
「目的は観光じゃないから、問題ないわ」
「観光じゃない? それはまた、いったい何をしに――」
不思議そうな顔で首を傾げた男に、は笑いかける。
「『王子様』に、会いに行くのよ」
は幼い頃、一人の男と出会った。
男はには持ち得ない、獅子の耳と尾をその身に持っていた。出会って間もなく、幼さ故の好奇心に導かれるまま無遠慮に尾に触れてしまったに、男は怒ることもなく、あまつさえ無理やり世話を押し付けられた子どもの面倒を見てくれた。おまけに、耳も触らせてくれた。そのときの感触と感動を忘れられなかったは、野良猫を見かけるたびに愛で、しまいには両親に猫をねだり困らせるという猫好きの人間になった。
愛らしい耳や尾とは反対に、皮肉めいた口調と、素直という言葉からは程遠い言い回しで話す男は世間一般から見ればお世辞にも愛想が良かったとは言えないだろうけれど、それでも、彼は確かに優しかった。少々乱雑に頭を撫でてくれた手のひらからも、眩しそうに目を細めて微かに笑う顔からも、力強い夏の日差しを浴びる葉の色の瞳も、真綿で包み込まれているようなふわふわとした温かさで満ちていた。
もうすぐ。
もうすぐ彼に会える。
道なりに進んでいくうちに、段々店の数も減っていき、そのうち居住区と思わしき区域に出た。目的地が近づいていると実感できる景色の変化に、の胸は高鳴っていった。途中、初めて目にする植物に気を引かれ観察に明け暮れたいと思ってしまった時もあったが、何とか思いとどまった。数回ほど道を曲がり、石造りの家の合間をひたすら歩き進め、ようやくたどり着いた大きな建造物の前では足を止める。
「ここね……」
それは他のどの建物よりも巨大だった。ぐるりと周りを囲む頑丈そうな石壁越しに見える建物はあまり高さはないが、代わりに正面からでは端が見えないほど広い土地の上に建てられている。
は門扉の前に佇む兵士らしき様相の男に声をかけた。
「あ、あの……」
「ん?」
「何だお嬢さん、迷子か?」
「レオナ・キングスカラー殿下との謁見をお願いしたいんですけど」
* * *
その日、ラギーは約一か月ぶりの休暇だった。休暇と言っても、午後からは通常通り出勤する必要があったのだが。次の休暇には帰省すると地元の子どもたちと約束を交わしていたが、あまりに短すぎる休暇だったためにそれは断念し、今回はのんびりと町の中で過ごすことにした。首都らしく栄えている町は居住区を抜けた先に有名な店や露店が立ち並んでおり、半日程度の時間を潰すにはじゅうぶんすぎるほどだった。ぶらぶらと適当な店を覗いて回った後、最近オープンしたという人気のドーナツ専門店で軽食を済ませたラギーは勤務先である王宮へと向かっていた。
学生時代に様々なアルバイトを経験してきたが、今はレオナの元で働いている。レオナは公務の傍ら、古代魔法や遺跡の研究と調査を行っており、ラギーの仕事はもっぱらその補佐である。
今日は確か、先日発見された遺跡の調査経過をまとめる予定だったはずだ。
基本的には体を動かす職務の方が多いが、事務処理を担うこともある。小難しい文字がズラリと並んだ資料と数時間睨み合う作業は正直気が進まない。しかし、レオナ直轄の雇用であっても王宮勤めという扱いで得られる破格の報酬のためには、耐えるしかなかった。
「ん?」
王宮への侵入者を阻む門の前で、誰かが騒いでいる。交代制で見張りを担当している兵士たちだろうか。あまり緊迫した空気は伝わってこないので一大事ではなかろうが、やけに困惑した気配が漂っている。
「何かあったんスか?」
「ラギー殿」
事態を見守っているらしい兵士の一人に声をかければ、心底困り果てた様子の男が振り返った。
「それが……あの少女がレオナ殿下に会わせろと引き下がらなくてですね」
「レオナさんに?」
第二王子でもあるレオナと式典や公務以外で会うためには、正式な手続きを踏む必要がある。専門機関へ必要な書類を提出し、身元の調査や面談などの審査を経て許可証を発行された者が王宮への訪問を認められる。
「正式に申請すれば一ヶ月ほどかかると伝えたら、『そんなに待てない』と反発しまして……殿下との約束があるだの。証拠はあるだの主張していますが、それがただの紙切れのようなんです」
「ふぅん」
ラギーには全く関係のない話であった。しかし、学生時代からの仲で直属の上司でもあるレオナと面識のある少女、という点に興味が引かれた。事情を伺うべく、ラギーは腕を掴まれて暴れないように動きを抑えられている少女と、これまた困ったように少女を宥めている兵士の元へ近づく。
「君がレオナさんに会いたがってる子ッスか?」
「貴方、誰?」
「怪しい人物に名乗る気はないッスよ。まずは質問に答えてくれます?」
「……そうよ。レオナ・キングスカラー殿下に用があるの。だから会わせてちょうだい」
「許可証は?」
「う……無いわ。でも、あの人の署名が入った紙ならあるわ! 彼が言ったのよ、大きくなったらこれを持って王宮を訪ねて来いって!」
訴えながら紙切れを掲げる少女の顔は真剣で、嘘を言っているようには思えなかった。
「――それなら、レオナさんに取り次いでみましょうか」
「ラギー殿! 勝手な真似をされては困ります!」
「レオナさんには俺から言っておくんで。後はこっちに任せてもらって良いッスよ」
「……わかりました」
責任はラギーが負うと暗に告げれば、兵士は渋々と引き下がった。何もいきなりレオナに会わせるわけではない。何やら訳ありらしい少女から詳しい事情を聞き、それからレオナへ会わせるか決めれば良い。ラギーが暴れたらすぐに追放すると念を押し、少女が了承する様子を確認してから、兵士に少女を解放させた。そのまま少女に着いてくるよう伝え、門の中へと誘導する。
少し離れたところで背後から聞こえてきた「チッ……ハイエナ風情が偉そうに」という嫌悪に満ちた言葉に、ラギーは肩をすくめた。隠す気もない兵士の不躾な態度は少女にも感じ取れたのか、横を歩くラギーを下から覗き込んでくる。
「ねぇ、貴方、嫌われてるの?」
「はっきり聞いてきますね……まぁ貧民街出身のハイエナの扱いなんざこんなもんッスよ」
「ふぅん。獣人属にも色々あるのね」
「これでもマシになったんスよー? ここで雇ってもらったばかりの頃はそりゃあもう酷いもんで。聞きます?」
「……遠慮しておくわ」
何かを察したのか、少女は顔を顰めてラギーの提案を丁重に断った。恐らく少女が聞いてもあまり気持ちの良い内容ではないので、その判断は賢明だろう。
ラギーは王宮の職員という扱いではあるが、レオナ自身が王宮とは別の場所に設けられている離宮に拠点を置いているため、必然的に職場もそこになっている。それなりに距離のある道すがら少女の身元の確認を兼ねていくつか問答を繰り返していくと、少女は賢者の島からやって来たということがわかった。賢者の島には、ラギーやレオナが過去に通っていた学園がある。
トラブルが絶えない忙しない日々を送ってはいたが、なんだかんだ楽しかったなぁと昔の記憶を懐かしみながら、ラギーは到着した待合室の扉を開く。
離宮への来客はあまり多くはないが、レオナ自身に用件のある人物や外部の研究員、専門家が訪れることもある。その際に客人をレオナの元へ通すまでの間、待たせておくための部屋だ。レオナとの謁見が必要ない相手への対応を済ませる場所でもある。
「じゃあひとまず話を聞きましょうか。つーか、王族に会いたいってんならもっと穏便にいくべきだったと思いますよ。今さらッスけど」
もっとも、正式な手続きを介するのが、一番スムーズに事を運べる流れだ。多少時間はかかってしまうが、急がば回れという言葉に間違いはない。
「最初はもっと丁寧にお願いしてたのよ! 筆跡鑑定すれば本物だってわかるでしょうし、魔力を辿れば正真正銘私へ渡されたものだってわかるって何遍言っても埒が明かないから、ついイライラして……」
「筆跡鑑定?」
「これよこれ!」
少女は先ほどから何度も見せてきていたボロボロの紙切れを、再びラギーに突きつける。ラギーが紙を受け取りよく見てみると、そこに書いてあるのは『DXメンチカツ』という文字。他の詳細や値段の部分はインクが掠れてしまっており、判読は難しい。しかし、その紙がどこで印刷されたものなのか、昔幾度も目にしたことのあるラギーにはすぐにわかった。
「うーわ懐かしい! これNRCの領収書じゃないスか。何で君が?」
「もらったのよ! おにいさ……レオナ殿下に」
「へぇ、レオナさんからねぇ……で? このボロボロの領収書と筆跡鑑定云々というのと何の関係が?」
「だからっ……あぁ、失礼。裏よ裏。こっちに書いてあるでしょう、あの人の署名よ」
「だいたい、何で領収書の裏なのよ。お守り代わりにするならもっとマシな紙にしてよね……」とぶつぶつ文句を垂れる少女を尻目に、ラギーは十年以上愛用しているマジカルペンを紙に当て魔力探知の魔法を発動する。繊細なイメージと魔力操作を求められる探知魔法はラギーにとっては少々不得手な部類ではあったが、良く知る人物の筆跡や魔力と同一であるかどうかを判断する程度であれば、ギリギリ可能な範囲であった。
「……確かにレオナさんの筆跡で、込められてる魔力も本人の物ッスね。年月経ってだいぶ薄れてはいるけど」
少女の主張通り、この領収書の元の持ち主はレオナであり、それを少女へ渡したのもレオナであるということがわかった。
ラギーは改めて少女の姿を眺める。
少女の背丈や顔つきからは、二十歳にも満たないように見える。一回り以上も年下の少女とレオナがどんな関係なのか、ラギーの中で湧きかけていた好奇心がムクムクと膨らんでいった。
「良いッスよ。一応変なもん隠してないか調べさせてもらって、問題なければ取り次いであげます。会ってくれるかはレオナさん次第ッスけど」
「わかったわ、ありがとう!」
体を調べられるのであれば同性の方が良いだろう、と女性の使用人を探しに行くべく立ち上がったラギーを、少女が引き止める。
「貴方も調べられるんでしょう。時間がもったいないから、このまま済ませてちょうだい」
「……まぁ俺は構わないッスけど。あとで文句言わんでくださいよ。セクハラだなんだって」
「そんなこと言わないわよ。宿も決まってないし、暗くなる前にさっさと片をつけたいだけよ」
「宿無しって……ずっと思ってましたけど君、無計画すぎません?」
「う、うるさいわね、なんとかするから良いのよ! それより早く終わらせて!」
「ハイハイ」
きわどい部分には気を遣いながら、しかし念入りに服越しのボディチェックを済ませ、少女が肩から提げていた鞄の中身を検めてから、部屋の中に備えられている簡易的な金属探知機を少女の全身にかざす。特に怪しい物品や危険な道具を隠し持っている様子はない。むしろ、少女の持ち物は財布や携帯端末などの貴重品の他、飲みかけのペットボトルと地図という、国を跨いできた旅行者とは思えないほどの少なさだった。
着替えなどは持っていないのだろうか。思わず尋ねてみるも「荷物を減らしたかったから、現地で買えば良いかなって思ったのよ」という返答に、少女の豪快さを垣間見た気がした。現地で買えば、現地に適した服装になれるだろうという少女の言には一理あるが、異国を訪れるのであればもう少し念入りに準備すべきではなかろうか。ラギーが少女のあまりにも無鉄砲な考えに呆れてしまったが、少女本人には何も言わなかった。
一通りの確認を終え、問題がないと判断したラギーが居住まいを正すと、突然少女の後ろ側から小さな影が飛び出してきた。思わずマジカルペンを構えたラギーは、視線の先でふよふよと漂う手のひらほどの大きさの影を目を凝らして見つめてみる。
それは背中に四枚の羽を生やしていて、見た目は人間の少女のような姿をしている。どこからどう見ても、あまり人前には姿を現さないと言われている妖精だった。普段見かけることのない種族の登場に、ラギーは面食らって身を引いた。
「ッ妖精!? 何でこんなところに」
「あぁ、それは私の一部みたいなものだから離れられないのよ。見逃してちょうだい。悪さしないようにちゃんと見張っておくから」
「……報告はしておきますからね」
「はーい」
あっけらかんとした様子で説明した少女に、いったい何者なのだという疑念が増したが、ひとまずレオナへ報告するためラギーは部屋の入り口へと体を向けた。
「ねぇ、もしおにいさ……レオナ殿下が私のこと、覚えてなかったらこの言葉を伝えて。そうすれば、きっと彼なら思い出してくれるわ」
少女は大切な宝物について話す子どものように、幸せそうに目を細めて口を開いた。
「十年前