「――だいぶ涼しくなってきたわね」
こめかみから伝った雫を懐から取り出した布で拭いながら、が空を見上げた。
の頭上では、雲ひとつ無い青空の中、燦々と輝く太陽が辺りを照らしている。熱気を帯びた日の光を浴びていると肌がじわりと汗ばむが、ときおり頬を撫でていく風が爽やかな心地にしてくれる。
が暮らす夕焼けの草原は年間で雨量の最も多い季節である雨季を終え、じきに乾季を迎えようとしていた。乾季に入れば、それまで湿り気を帯びていた空気は乾き、雨がぐっと減るだけでなく気温も下がっていく。
もう幾日も経てば、夏の気配は完全にどこかへ去ってしまうだろう。現に、ここ何日かは晴れた日が続いている。さらには酷暑とも呼ぶべき夏の暑さも徐々に弱まっており、かなり過ごしやすい気温になってきていた。日が沈んだ後には、肌寒さをも感じるようになったほどだ。
「暑いのにも、やっと慣れてきたんだけどなぁ」
がポツリと独りごちる。は前回の乾季の終わり頃に夕焼けの草原へやってきて、それから幾ばくも経たないうちに雨季へと突入した。
元々夕焼けの草原の夏は暑いという知識は持っていたが、実際に暮らしてみるとが覚悟していたよりもずっと厳しいことがわかった。
乾季のときとは打って変わり、日中は四十度近くまで上がることもある。その上、湿り気を帯びた空気が常に雨の気配を漂わせていて、酷く蒸し暑い。
聞いた話では、雨季に入る前後が年間の中で最も暑さが厳しいそうだ。その期間さえ越えてしまえば、気温の上昇も徐々に落ち着いていくと言われ、も最初のうちは何とか耐えていた。
しかし生まれ育った故郷とは異なる環境の変化に体は上手く馴染めず、体調を崩しては回復するという日々を繰り返していくうちに、ようやく普通に過ごせるようになったところなのである。
再び季節の変化を迎えるにあたって、は前回と同じような失態は犯すまいと入念に準備をしてきた。食事や睡眠には普段以上に気を遣い、加えて、着るものも日中と夜との寒暖差に対応できるようしっかりと取り揃えた。
「今回こそ誰にも心配させないし、呆れさせないんだから」
はしたり顔をしながら、以前体調が悪化し寝込んでしまった際に各々呆れながらも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた使用人仲間たちの顔を思い浮かべた。
仕事の合間を縫って入れ代わり立ち代わりの私室へ様子を見に来てくれた彼女らは、皆謀ったかのようにその手に何かしら食べ物を抱えていたことも思い出し、笑いがこみ上げてくる。
夕焼けの草原で暮らすようになってからの期間はまだ一年にも満たないが、かなり良好な縁を築けていると思う。
「でも、食べ物をあげれば元気になると思われてる節があるのはちょっと複雑だわ」
いったい、どこでそんなイメージが定着してしまったのだろう。は首をひねるが、思い当たる記憶はない。
実はの雇用主でもある男が、以前が菓子を食べる姿を見て以来自らは食べない菓子類を懐に忍ばせるようになり、と顔を合わせるたびに分け与えるようになった姿を見て他の者も真似するようになったという経緯があるのだが、本人だけがそのことを知らない。
うーん、と本格的に考え込み始めただったが、不意に手の甲に小さく痛みが走り、意識を目の前へと引き戻される。手元に視線をやれば、手のひらほどの大きさで子どもの姿をした妖精が不満を顕にを見上げていた。
「――――!」
「ごめんなさい、早く終わらせなくちゃね」
妖精はの手の甲にしがみついた格好のままパクパクと口を動かして何かを訴えるが、には妖精の言わんとしていることは伝わらない。小さな妖精族の声は、人間であるの耳では拾えないのである。
それでも、妖精がの気もそぞろな姿に腹を立ててしまっていることはわかった。心底憤っている様子の妖精にはもう一度謝ってから、手元の花へ魔力を流す作業に意識を集中し始めた。
季節が変われば、気候による影響を受ける植物たちもその姿や種類を変えていく。の職場でもあるここ――夕焼けの草原の王宮からやや離れた位置にある離宮の中庭でも、植えられた植物たちの咲かせる花の種類が切り替わり始めていた。
「よし、このくらいで良さそうね」
手元に集中させていた魔力を解き、はふうと一つ息を吐いた。の手の上で、妖精も「疲れた」と言わんばかりにくたりと全身を預けてくる。肩よりも少し長めの色素の薄い髪が、の肌をくすぐった。
は妖精が掴まっていない方の手で小さな頭を撫でてやりながら「今日お願いする作業はこれで終わりだから、後はゆっくり休んでて」と笑いかけた。妖精はにこりと笑い返すと、キラキラと淡く輝く羽をはためかせながら飛び去って行く。
その後ろ姿が遠く見えなくなる様子を確認してから、は目の前で咲き誇る花へと向き直った。花全体の大きさは手のひらと同じくらいで、花弁の色は鮮やかな朱色。花弁の縁にひだのある特徴的な形で上向きに咲くこの花は、暑い季節に見頃となるものだ。
じきに開花期を終えるであろうこの花は暑さには強いが、乾燥にはとても弱い。雨季から乾季へと切り替わっていく今の時期は乾燥も強まっていくため、ここ数日は元気が無くなってきていた。そのため、は妖精の力を借りて花へと届ける水分量を調整していたところだった。
「こんにちは」
記録用のメモに作業経過を書き込むに、背後から一人の侍女が声をかけてきた。
「あ、こんにちは! また来てくれたのね」
彼女は最近この中庭に良く訪れてくれる、離宮に仕える使用人の一人だ。どうやらこれから昼休憩に入るらしい。
「乾季に入れば、今咲いてるお花の種類も変わるんですよね。見れるうちに見ておきたくて」
「嬉しいわ。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます。お仕事頑張ってくださいね」
「ありがとう!」
ベンチや噴水が設置されている中庭の中央へ向かった侍女に手を振り、はにんまりと笑みを浮かべた。
庭というものはときとして、敷地の広さや景観の美しさにより持ち主の権威の象徴にもなり得るもの。とはいえ、たとえどんな意味や目的をもって作られたにせよ、やはり見る者在ってこその庭である。丹精込めて育て、日々世話をする植物たちを見た者が癒やされ、楽しんでくれることこそ、庭師にとって最上級の喜びだ。
が離宮へやってきたばかりの頃は諸事情により荒れ果て誰も足を踏み入れることのなかった中庭も、今ではすっかり見違えていた。中庭には季節ごとに開花期の異なる植物を、花を付けない種類の植物も交えて様々な植物を植えてある。種類により咲く花の量や大きさなども異なることから、全体的な景観のバランスを考慮して育てた中庭は自身から見てもかなり立派な出来栄えだ。
「……もうそろそろ、一ヶ月かぁ」
中庭を完成させるまでに要した期間は、半年ほど。それからさらに、一ヶ月が経とうとしている。
が庭師として雇ってもらった離宮には、王宮と比べるとあまり客人はやってこない。やってきたとしても、わざわざ中庭まで足を運ぶ者はさらに限られている。しかし、貴人の存在が無いことでむしろ気兼ねなく過ごせるということもあり、離宮内の使用人たちの間で中庭の評判は上々だった。
「一段落ついたし、私も少しだけ休憩しようかしら」
はその場で大きく伸びをしてから周囲に広げていた道具類を簡単にまとめると、中庭の中央へと足を向けた。
中庭の中央には、噴水を中心として二十メートル四方ほどの範囲に石畳が敷かれている。その四辺上にベンチを一定の間隔で並べており、色鮮やかな花々に囲まれながらのんびりと過ごせるようになっている。そのため、憩いの場としても人気のスポットだ。
噴水の近くまでやってきたが周囲を確認すると、今日は八人ほどがそれぞれ思い思いの場所で談笑していた。その中に見知った姿を見つけ、が顔を輝かせる。
「フィーネさん! 来てくれてたのね」
「こんにちはぁ」
息を弾ませて駆け寄ったに、顔の横に巻き角を生やした侍女服姿の少女――フィーネが間延びした口調で笑いかけた。フィーネの隣には、先ほど挨拶を交わした侍女も座っている。
「私もお邪魔して良い?」
「どうぞぉ」
「今からお昼ですか?」
「ううん、ちょっとだけ休憩。お昼ご飯はもう済ませてあるから」
「以前はもう少し遅めの時間でしたよね?」
「最近は早めに食べちゃってるの」
今は午後一時過ぎ。は以前は使用人専用のキッチン兼休憩所に人が少なくなる午後二時以降を狙って昼休憩を取っていたのだが、最近はなるべく早い時間に済ませてしまうようにしている。
というのも――
「先に済ませておかないとぉ、あの方がいらっしゃいますからねぇ」
「あぁ、そうでしたね」
フィーネの言葉に、隣の侍女が納得したように頷く。二人の表情はにこやかで、微笑ましいものを見るような目でへと視線を向けてきた。
「……あまり揶揄わないでちょうだい」
ほわりと熱を帯びた頬を押さえながら唇を尖らせれば、クスクスと笑われる。
二人の言う『あの方』とは、この離宮の主でもあり、の雇用主でもある男のことだ。その男はほぼ毎日、昼を数刻ほど回った時間帯になるとこの中庭へとやってくる。は男が中庭に滞在している間は常に一緒に過ごしているため、男が来る前に昼食を済ませるよう昼休憩の時間を早めるようにしたのである。
ニマニマと愉しむような笑みを浮かべるフィーネからの視線に耐えかね、彼女の気を逸らそうとは全く別の話題を持ちかけた。
「ねぇ、フィーネさん、この前貸してもらった小説のことなんだけど」
「小説ですか?」
の言葉に、フィーネの隣の侍女が首を傾げる。
「ほらぁ、『最初で最後の恋模様』ですよぉ」
「あ、私も読みました! 素敵でしたよね」
『最初で最後の恋模様』とは、最近夕焼けの草原で人気の小説だ。主人公の女の子と幼馴染みの年上の男性との甘酸っぱい恋愛を綴ったそれは、若い女性使用人たちの間でとても流行っていた。
それから小一時間ほど『最初で最後の恋模様』についての談義で盛り上がっていた三人だったが、不意にフィーネが中庭の入り口の方へと顔を向ける。
「いらしたみたいですねぇ」
フィーネと侍女の二人が、手早く荷物をまとめ出す。たちとは違う場所でくつろいでいた者たちも、一様に立ち去る準備を始めていた。その様子を見て、は眉を下げる。
「気にしなくても良いのに……」
「私たちが気にしたいんですよ。お二人の貴重な憩いの時間ですから」
「それじゃあ、ごゆっくりぃ」
ひらひらと手を振り去っていった背中を見送りながら、一人残されたはベンチに腰掛けたままぶらぶらと足を揺らした。
少しして、サクサクと芝生を踏みしめる足音が聞こえてくる。弾けるように立ち上がったの名前を、艶のある低い声が呼んだ。