明日の恋を咲かせて Chapter.1 明日の恋を咲かせてⅠ 1-2

「今日はここにいたのか」
「レオナさん!」

 背の高い緑の隙間から現れたのは、ゆったりとしたデザインの上質な服を着た男――離宮の主であり、の雇用主でもあるレオナだ。ややウェーブのかかったチョコレートブラウンの長い髪をハーフアップで編み込み、頭の上では丸みを帯びたふわふわの獅子の耳が顔を覗かせている。

「今日は少し早いのね」
「ん。今日は割と余裕があってな」

 すらりとした長身の背後で、細くしなやかな尾が上機嫌そうに揺れる。

「そっか、じゃあ昨日よりはゆっくりしていける?」
「昨日もゆっくりはしてただろ。ほとんど寝て終わったが……おい、土ついてんぞ」
「んむっ」

 親指で頬をぐいとこすられ、そのままもにもにと揉まれる。

「はひひっへへふへる?」
「何だって?」
「ぷはっ……先行っててくれる? って。顔洗ってくるわ」
「ハイハイ」

 奥まった目立たない場所に設置してある水場で手や顔についた土を洗い流してから、が先に移動しているであろうレオナの元へ戻る途中、最後まで残っていた侍女らしき女性と目が合った。女性はの視線に気が付くと、にこりと生温かな笑みを浮かべて去っていく。

「…………」

 神妙な顔で再び合流したに、レオナがこてりと首を傾げる。

「どうした。変なモンでも食ったか」
「この短時間で何を食べるのよ……ちょっとムズムズするだけ!」

 レオナとが二人きりで過ごせるように、フィーネを始めとした使用人たちにはとてつもなく気を遣わせてしまっている。

 休憩時間に訪れてくれて、せっかくのんびりしてもらっているところに水を差してしまうようでとしては非常に申し訳ない限りだ。しかしレオナ曰く「どのみちアイツらも、俺がいると気を張るだろう」とのことなのだが、はそういうものなのだろうかと納得できるような、よくわからないような、複雑な心境だった。

 レオナは、夕焼けの草原の第二王子。そしてフィーネたち使用人は、レオナら王族に仕える身分である。主であるレオナが中庭で過ごしたいと望むのであれば、彼の望む時間の邪魔となってしまわぬよう配慮することもまた、使用人たちの仕事のうちだとフィーネたちは言う。

 王族の一員として国を支える重責を背負うレオナにとって、中庭で過ごす時間は日々の疲れを癒やす大事なひとときでもある。だからこそ、なおのこと余計な気配や存在を排除した空間で、ゆっくり休んでほしいのだとも。ただひとり、レオナ本人がその場で寄り添うことを望むとともに。
 
 庭師として中庭の管理を任されているも、フィーネたちと同様に離宮の使用人という立場に身を置いている。しかし、レオナとの関係においては、他の者たちとは違う立場にあった。

「ほら、手」

 言いながら差し出されたレオナの右手に、がおずおずと左手を乗せる。そのまま指を絡めとり繋がれた温もりに、がほんのりと頬を色付かせた。顔を赤く染めどぎまぎとし始めたを見て、レオナがくつりと喉を鳴らす。

「これくらいで何照れてんだよ」
「ま、まだ慣れないんだってば……」
「相変わらずだな。『恋人』になってから、もう一ヶ月も経つのに」

 そう。レオナとは『恋人』なのだ。

 中庭が完成した頃から始まったこの関係だったが、はいまだにレオナと触れ合うたびに気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。

 顔についた汚れを拭ってくれたときのような些細な触れ合いであればさほど気にならないのだが、『恋人』としての行為となると手を繋ぐといった触れ合い程度のものであったとしても、の心臓は途端に高鳴りそわそわと落ち着かなくなってしまう。

 そんなをレオナは揶揄いはすれど、怒るようなことはしない。いつもが心を落ち着かせられるまで、根気強く待ってくれている。

 レオナと手を繋いだまま、は何度か深呼吸を繰り返す。三度目の息を吸ってようやく通常のリズムを刻み始めた心臓を胸の上から抑えて、大きく息を吐いた。よし、そろそろ大丈夫そうだ。

 レオナにも伝えるべく、合図代わりにぶらぶらと腕を揺らす。察してくれたらしいレオナが、わずかに目を細め止めていた足を再び動かし始めた。

「待ってて、今開けるわ」

 目的地へとたどり着き足を止めた二人の前に、特殊な加工を施したガラスで作られた温室がそびえ立つ。

 は懐から鍵の束を取り出すと、緑色の印を付けられた鍵を手に取った。レオナから離れ、温室の扉にかけてある錠を持ち上げる。穴の中へ鍵を差し込んだ後、錠の開く音を確かめてから扉の取っ手に手をかけたところで、いつの間にか背後へと移動していたレオナの手が、ひと回りも小さなの手を上から覆った。

 レオナは身を固くしたを自身の後ろへと下がらせると、扉を開け左手の手のひらを上に向けて差し出してくる。

 どうやら、レオナはをエスコートしようとしてくれているらしい。

 一瞬呆けた後レオナの意図を察したが、慌てて鍵束を握っていた手を空けてから、レオナの手のひらの上に自身の右手を添えた。恥ずかしさを誤魔化すようにツンと顎を上げてすまし顔をしてみれば、レオナは「その顔、似合わねーな」とおかしそうに笑う。あんまりな言い草にムッとしたの頭を、レオナが空いている方の手でなだめるように撫でた。

 がレオナに手を引かれながら踏み入れた温室の中は、数十種類もの花々で彩られている。その種類は多岐にわたり、夕焼けの草原では見られないようなものも、生育が可能な地質や気候に関係なく、一年中花を咲かせていた。

 広さは小さめの公園一つ分ほど。中庭全体の敷地と比べると、さほど大規模ではない。温室の内部で区画を分け、区画ごとに温度や湿度などを細かく調整し管理することで、環境という制限を受けることなく様々な植物を楽しめる場所になっている。

「……相変わらず見事だな」

 レオナが入り口の側で咲き誇る真紅の薔薇を眺めながら、ポツリと呟いた。それを聞き、が誇らしげに胸を張る。

「フフン、もっと褒めてくれても良いのよ!」
「アー、スゴイスゴイ」
「何で片言になるのよ」
「これだけ立派なんだから、いつも開放しておけば良いだろう」
「……良いの。だって、ここはレオナさんのために作った場所なんだから」

 本来であれば、温室の外側と同じように誰もが自由に立ち入りできるようにするべきなのだろう。しかし、元々中庭に建設予定の無かった温室をわざわざ作った理由は、ただ一つ。

 レオナの、身も心も休められる場所を増やしたかったからだ。

 そのため温室はレオナだけが見られれば良いと、普段は入り口に鍵をかけている。もちろん見たいと望む者が現れれば見てもらうつもりではあるが、今のところ声を上げる者はいない。

 中へ入ってからが扉を閉めようとしたところで、レオナから「扉は開けておけ」と止められる。

「前にも言っただろ」
「そ、そうだったわ……ごめんなさい」

 建物そのものはガラス張りではあっても、植物が植わっていることで死角も多い温室が密室であることに変わりはない。

 つい一人でいるときの癖で閉めようとしてしまったが、レオナとの関係はまだ健全な範囲であることを示すためにも、密室で二人きりになる際は必ず扉を開けておくようにレオナから注意されていた。

 扉を開け直したが隣に並ぶのを待ってから、レオナは歩き出した。

 舗装したレンガ調の道を進んでいき、温室の中央部に辿り着くと、そこには少し開けた芝生が広がっている。

 赤い小さな釣鐘型の花を、一つの房にいくつもぶら下げたサルメア。

 薔薇に似た形で、株ごとに赤や白、黄色といったカラフルな花を咲かせるローザ・ティヌス。

 その他にも、華やかな色や見た目の花々に囲まれたこの区画こそが、温室のメインエリアであると言っても過言ではない。そして、芝生の中心に腰かけた際に視界に広がる景色は、レオナの母校――NRCの植物園の一画を再現したものだ。

 が敬愛して止まない祖父は、NRCの植物園で専属の庭師を務めていた。そしてその植物園を気に入って多くの時間をそこで過ごしていたというレオナがゆっくりと過ごせるように、とが特に力を込めて作った場所である。

 もちろん、祖父の手がけた景観をそっくりそのまま再現しているわけではない。あくまでベースとしただけで、なりにアレンジを加えてある。

 たとえば、この区画に植えてある花はどれも香りが強くない種類を選んでいるし、花同士の香りが混ざり合っても決して不快なものにならないよう配慮してある。その上で、リラックス効果のある香りを持つ種類も取り入れていたりもする。

「膝」
「はぁい」

 まるでお茶を要求するときのように、レオナが単語一つでに膝枕を求めてくる。は返事をしながら、いそいそと芝生の上に腰を下ろした。作業用の前掛けを外し埃を叩いてから膝を畳めば、レオナがのそりと頭を乗せてくる。

 レオナは温室へ来ると、まずは仮眠代わりに昼寝をするのが習慣になっていた。その際、決まってに枕としての役割を要求してくるのだが、もそれについては特に不満に思ってはいない。

 膝に頭を乗せることで必然的に近くなる距離については、多少慣れてきたとはいえまだ緊張してしまうのだが――の前でレオナは無防備な姿を晒すことを許してくれているという信頼の証でもあるので、そういった意味ではむしろ喜ばしかった。

 さらに、レオナはが膝を提供する見返りとして手触りの良い柔らかな髪や耳を心ゆくまで触らせてくれるので、ご褒美の方を楽しみにしていたりもする。レオナの耳はとてもふわふわで温かく、時間も忘れて触っていられるほど極上の感触なのだ。

「今日は何分くらい?」
「十五分」
「短くない? 良いの?」

 このやり取りは、レオナが寝入ってからが彼を起こすまでの時間の目安の確認である。

「昨日は寝過ぎたからな」
「ふふ、ぐっすりだったものね。起こしてもずっとボーッとしてたし」

 昨日も、今日と同様にレオナは昼寝をしていた。は一時間ほどで起こすように言われていたのだが、心底疲れている様子で色濃い隈を目元に湛えたレオナの寝顔を見て起こすことを躊躇っていたら、結局二時間経ってしまっていた。レオナはあまり寝起きがよろしくないので、が起こしてからも覚醒するまでにかなりの時間を要したのだ。

 ぼんやりとしながら虚空を見つめるレオナは、テキパキと仕事をこなす普段の様子からは想像もつかないほどに纏う空気が緩い。寝癖まで付いているときだってある。そんな気の抜けた姿を見ていると、は胸の奥から親近感と、同時に愛おしさまで感じてしまうのだ。

 思い出しながら笑うに、が考えていることを察したらしいレオナは仕返しだとばかりに意地の悪い笑みを浮かべると、揶揄うような口調でに尋ねてくる。

「膝枕より、抱き枕の方が良かったか?」
「ッ!?」

 レオナの言う『抱き枕』とは、レオナがを腕の中に抱き込んでの昼寝であり、要は強制的な添い寝である。

 つい先日、まさしく『抱き枕』状態でレオナとともに昼寝をさせられたのだが、あのときは終始緊張しっぱなしで、眠るどころではなかった。

 なにせ、彫刻のように整ったレオナの顔が眼前に広がっているのだ。手を繋ぐだけで恥ずかしがってしまうようなが、平常心を保てるはずがない。距離が近いことで何やら良い香りも鼻孔をくすぐっていて、頭が逆上せそうになったことをはよく覚えている。

 レオナが眠ってからこっそりと腕から抜け出そうと試みたが、本当に眠っているのかと疑わしいほどの力で強く抱き込まれてしまい、さらに密着するはめになっただけだった。

 結局、はレオナが目を覚ますまでの数十分間、動くことも顔をそらすことすらできず、今後中庭に植えてみたい植物の名前を無心で脳内にリストアップすることしかできなかった。

 あの状況を平常心で過ごせるようになるのは、まだまだ先になりそうだ。

 思い出したことで熱を持った頬を、が手でパタパタと扇ぐ。

 それに、レオナを呼びに来たハンスにバッチリとその添い寝の様子を見られてしまったのだが、彼の見せた何とも言えない表情を忘れられない。名前を呼んでもペチペチと頬を叩いてみてもなかなか起きてくれないレオナをハンスの助けもあって覚醒させることができたのだが、しばらくの期間、気まずくてハンスとは顔を合わせづらかった。

「ひ、膝枕で大丈夫だから……ほら、寝る時間無くなっちゃうわ」
「ん……今日はちゃんと、時間通りに起こせ、よ……」
「わかってるってば。おやすみなさい」

 が頷いてから目を閉じたレオナは、ものの数秒で寝息を立て始める。レオナの穏やかな寝顔を見つめて、が微笑んだ。

 さて、今から十五分、何をして待っていようか。

 辺りをキョロキョロと見渡すが、これといって暇を潰せるようなことを思いつかない。は結局、レオナの寝顔を観察してみることにした。

 染み一つ無い、美しい肌。キリッとした形の良い眉と、スッと通った鼻筋。彫りの深い目鼻立ち。閉じられた瞼を縁取るたっぷりのまつ毛は、天井から降り注ぐ陽の光をキラキラと跳ね返している。

 本当に、絵画の中から抜け出してきたかのような美しさだ。

 レオナが起きているときにはじっくりと眺めることなどできない。今のうちに、その美しさを目に焼き付けておこう。

 せっかくだから写真にも収めておこうかと携帯端末を取り出し、パシャリとシャッターを押したところで、眉を顰めたレオナの口から「ん……」と妙に艶のある声が漏れた。

 起こしてしまっただろうか。

 がそろりとレオナの様子を窺うも、目覚めそうな気配は無い。穏やかな表情に戻りこんこんと眠り続けるレオナに、はほう、と安堵の息を吐いた。

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