闇に染まる

 傾いた日差しがチリチリと肌を突き刺してくる中、日中に溜め込んだ熱をむわりと放つアスファルトを踏みしめる。
 マジフト部の練習が終わり軽く着替えだけ済ませた俺は、予め端末に連絡されていた場所へ向かっていた。

 今日はアイツ――監督生が俺の部屋へ泊まりに来る日だ。
 放課後、部活やら何やらで埋まっている俺の時間が空くのを待つ間、監督生は様々な場所で時間を潰している。
 どうせ俺の部屋へ来るのだから最初からそこで待っていれば良いとも思うのだが、それを伝えてみた際には丁重に断られた。
 理由は確かめなかったが、アイツにもアイツなりの過ごし方というものがあるのだろう。
 提案自体に対しては目を輝かせていたし、嫌というわけでもないのであれば、それでじゅうぶんだった。

 いつもは用事が済んだ後、連絡を入れれば監督生は自ら俺の部屋へとやって来る。
 しかし、気が向いたときには今日のようにこちらから迎えに行ってやることもあった。

 今日は中庭にいますね、とだけ書かれた簡素なメッセージを確認して、辺りを見渡す。
 監督生曰く、放課後から夕方にかけての日当たりが程よくて過ごしやすいらしいそこは、立ち並んだ樹木の下に、一定の距離を置きいくつものベンチが設えられている。

 その中の一つに、監督生が座っていた。
 その隣には、見知った俺の同級生の姿も並んでいる。
 オレンジ色の前髪を上げ、ダイヤモンドのフェイスペイントを施した男と妙に楽しげに笑い合う監督生を見つけて、胸の中が微かにざわついた。

「あ、レオナくんじゃ〜ん。部活終わり? お疲れ様!」

 俺に気が付いたのは、ケイトの方が先だった。
 ヒラヒラと手を振るケイトに一瞬遅れて、何やら手元の本を読み耽っていた監督生も顔を上げる。
 パチリと目が合った瞬間、監督生の顔が綻んだ。満面の笑みを浮かべ、俺の名前を呼びながら駆け寄ってくる姿は、さながら忠犬のそれである。
 パタパタと軽やかな足取りでやってきた監督生は、俺よりもずっと華奢で、頭一つ分も小さい。
 小柄な体からは、左右に大きく振られる尻尾が見えそうなほどに感情がだだ漏れだった。

 思わず監督生の頭へ手が伸びかけたところで、もう一人の存在を思い出しそっと引っ込める。
 一人ベンチに残されていたケイトが、ニヤニヤと笑みを浮かべながらこちらを眺めていた。

「……見せもんじゃねぇぞ」
「えぇ〜、良いじゃん良いじゃん! 二人が仲睦まじくてけーくんも嬉しいよ」

 煩わしいという感情を込められるだけ込めて舌打ちを送ったところで、ケイトは特に臆するでもなく飄々とした態度を崩さない。
 こちらへ歩いてきたケイトが、すれ違いざまに監督生の耳元で何かを囁き、監督生の頬がぶわりと赤く染まった。
 二人してこちらを窺ってきたので、大方俺絡みの内容で揶揄われたのだろう。それでも、目の前で自分以外の男に監督生が感情を乱される様を見るのは、あまり気分の良いものではなかった。

 ケラケラと笑いながらこちらへ向かってきたケイトを睨み付ける。それすらも可笑しいのか、さらに笑みを深めたケイトが俺の肩をポンポンと叩いた。

「いやー、レオナくんも隅に置けないよねぇ」
「は?」
「ちょっ、ケイト先輩……!」
「何の話だ」
「それは監督生ちゃんに聞いてみて☆ それじゃ、また休み明けにね〜!」

 ヘラリと笑い手を振りながら、ケイトはさっさとその場から立ち去っていった。
 一体、何だってんだ。

「おい、何の話だ?」
「ッ! せ、先輩のお耳に入れるほどのことでは……」
「……あ゙?」

 まさか誤魔化そうとされるとは思わず、つい凄んだ声が出てしまった。
 監督生がぴしりと固まる。

 威嚇するようなこの声は、俺が不機嫌なときに出るものだということを、監督生は知っている。
 サァと顔を青ざめさせる様子を見て気まずくなり、首の後ろを掻いた。

「……別に、怒ったわけじゃねーよ」
「はい……」

 項垂れた監督生の手を引いて、ベンチに誘導する。
 腰を下ろし、隣に座るよう促せば、監督生は大人しく従った。その後もチラチラとこちらを窺いながら、何かを言おうと口を開いては結局何も言わずにまた閉じて、といった動作を繰り返している。

「お前にも秘密の一つや二つあるだろうし、それを無理やり聞き出す気はねぇよ」
「はい……」
「だがな、明らかに俺が関わってるってんなら話は別だ。あんな意味深な言い方されて、気にならないわけあるか」
「うぅ……内緒ですよって言ったのに」
「で? 本気で言いたくねぇならこれ以上は聞かないでおいてやっても良いが」
「い、言いたくないというよりも、気恥ずかしいといいますか……」

 ゴニョゴニョと口ごもる監督生を、組んだ脚に肘をついて眺める。
 先ほどの監督生とケイトとの内緒話のようなやり取りを思い出して、胸のわだかまりが戻ってきた。
 ……やっぱり、気に食わねーな。

 まだ迷っている様子の監督生との距離を詰めて、頬に手を添えてこちらを向かせる。
 監督生は一瞬きょとんとした後、ふわりと頬を弛めた。
 ほんの数秒前まで、眉を下げてうんうん唸っていたくせに。
 本当に一瞬で表情が変わりやがる。

「あの、先輩……?」

 むにむにと弾力のある頬を揉んで感触を楽しんでいると、戸惑うような声で呼ばれた。

「気が変わった。白状しねーならこのままキスする。五秒以内に言え」
「はい!?」
「五、四……」

 問答無用でカウントを開始すれば、顔を真っ赤にした監督生が慌てて「言います、言いますから!」と制止してきた。

「ちょっと、話を聞いてもらってて」
「話?」
「…………」

 また黙り込んだ監督生の頬へ手のひらを押し付ける。薄い唇を親指でわざとらしくゆっくりとなぞれば、監督生は慌てふためいて再び口を開いた。

「レオナ先輩の、ことで……」
「……それはもう知ってる」
 
 まだ踏ん切りがつかないらしく、あーだのうーだのと口ごもる監督生に痺れを切らし顔を寄せる。
 監督生の口から「ひっ」とひきつった悲鳴が漏れた。
 なんだよ、その反応は。

「近い近い近い……!」
「あぁ? いつもの距離だろうが」
「外は例外なんです……‼」

 顔を真っ赤に染め必死に距離を取ろうと腕を突っぱねる姿に、嗜虐心がむくむくと湧き上がってきた。
 本当に力を込めているのかと疑わしいほど頼りない細腕を片方ずつ掴んで、逃げられないように固定する。
 互いの呼吸が触れ合うほどに近づけば、監督生はギュッと目を瞑り顔を逸らした。往生際が悪い。

「全部吐け」
「うぅぅ……」

 無言でじっと見つめ続ければ、こちらが引く気はないと悟ったのか、監督生がようやくぽつぽつと打ち明け始めた。

「時々……不安に、なるんです。先輩みたいなすごい人の隣に、自分が並んでいて、本当に良いのかなって」

 探るように一つ一つ紡がれた言葉は、微かに震えていた。
 この期に及んでそんなことで悩んでるのか。まぁ、監督生の立場を考えれば気持ちもわからなくもないが。
 それでも、今さら誰に何を言われようがコイツを手放す気などない俺からしてみれば、他愛もない悩みだった。

 監督生の悩みとやらが、俺への不満だとかが溜まりに溜まった結果、離れたいなどと思われているとかだったらと、ほんの少し――爪の先ほどの不安が頭をもたげてしまったことは、きっと一生、監督生が知ることはないだろう。
 
「つまり、俺の愛はお前に余計な不安を抱かせるほど、ちゃんと伝わっていなかったということで良いか?」
「ッ違います!!」

 食い気味で立ち上がりながら否定され、その勢いに圧倒されてつい言葉が詰まる。
 ハッと我に返った監督生が周囲を見渡して、そっと腰を下ろした。

「伝わってます。ちゃんと。先輩がどれだけ自分のことを、あ、愛…………あい…………」
「そこで恥じらうなよ」

 緊迫した空気が、わずかに緩む。
 思わず白けた目で見下ろせば、監督生は「言い慣れてないんです……」と消え入りそうな声で言い訳してから、大きく深呼吸した。

「……先輩が、自分のことを愛してくれてるのは、よくわかってます」

 監督生の頬に添えた俺の手に、監督生の手が重ねられる。

「触れてくれる手のひらからも」

 とろりと濡れた両の瞳が、細められる。

「『私』に向けてくれる視線からも」

 手のひら越しに、ほんのりと色付いた頬が弛む。

「先輩が『私』にくれる全部から、先輩がどれだけ『私』を大切に想ってくれているのかが、伝わってきます」

 監督生が柔らかく微笑んだ。
 その表情から伝わってくるのは、ただただ純粋な喜びと、愛おしさだけ。

「それがとても嬉しい、です。先輩と過ごせる時間は、自分にはもったいないくらい幸せで、誰からも……先輩からも、私が先輩に相応しくない、って思われたくなくて。思われたとしても、一緒にいたいって気持ちは、なくせないんですけど……」

 掴んだままだった両腕が離してくれとばかりに揺らされたので、力を緩めてやる。スルリと離れていった白い腕は、監督生の傍らに置いてあった分厚い本の表紙をそっと撫でた。

「だから、そんな不安なんか吹き飛ばせるくらい、自信を持てるようになりたいって話を、ケイト先輩に聞いてもらってて。やっぱり、こういうところから地道に土台を固めていくしかないよねって、結論に至りました」

 そう言って、監督生は本を自分の顔の前に掲げた。表紙に刻まれたタイトルは、『やっぱり基礎から! 魔法薬学』。

「別に、勉強は前からやってただろ。お前なりに」

 魔法も使えない監督生は、特例でこの学園に在籍させてもらっている。それならばやはり生半可な成績のまま甘んじているわけにはいかない、と以前から努力してきたのは知っている。
 その努力の成果が、徐々に実を結んできていることも。

「でも、まだまだ平均レベルでしかないんですよ」

 それじゃダメなんです、と監督生は頬を膨らませた。

「先輩に追いつける、とまではさすがにまだ言えませんけど、それでも一歩でも多く近づけるように、頑張るんです」

 丸くなった頬を突けば、プスリと間抜けな音を立てて空気が抜けた。

「ゼロからスタートしたにしては、良い方だろ」
「……なんだか今日は甘やかしてきますね?」
「そうか?」
「ですよ。いつもなら勉強見てくれてるときも『この程度もわかんねぇのか』とか、意地悪言うじゃないですか……ん? でもなんだかんだ最後までちゃんと教えてくれるし、そう考えると先輩はいつも甘いか……」

 ブツブツ呟きながら一人納得している様子を眺めながら、ふと思い当たった考えを口にする。

「あぁ、もしかして、お前が放課後色んなところでうろちょろ過ごしてるのはそういうことだったりするのか?」
「うろちょろって……まぁ、勉強するのに色々場所を借りてやってますけど」
「勉強なら俺の部屋でもできるじゃねーか」
「先輩の部屋は……気が抜けちゃうので……」
「はぁ?」
「その……先輩の匂い、とか、先輩の存在を感じると……安心しちゃうんです」

 「だから、どうにも集中できなくて……」と続けた監督生は、耐えきれないとばかりに顔を両手で覆った。
 隠しきれていない耳の先や、指の隙間から覗く肌は赤い。
 俺の部屋だと勉強も身に入らなくなるくらいリラックスしてしまうので、他所で過ごしていた――と。
 それほどまでに、監督生の内側に俺という存在が入り込んでいるということだ、と言われたようなものだ。

 監督生の言葉を脳内で反芻して、その意味を把握し、堪らずに手で顔を覆う。突然黙り込んでしまった俺を、監督生が覗き込んでくる気配を感じた。

 手を外し、視界に入ってきたほんのり色付いたままの頬も。
 羞恥からか潤いを増した両の瞳も。
 少しだけ開いた桜色の唇も。
 そのどれもが至極美味そうに見えて、惹かれるがままに顔を寄せる。

「えっ……んッ」

 驚いて声を上げた唇にかぶりつく。
 息を呑んだ監督生が頭を後ろに引こうとしたので、後頭部に手を回し押さえ付けた。
 逃してなどやるものか。
 それでも監督生は抵抗しようとするので、太ももに尻尾を絡めれば観念したように腕から力を抜いた。

 しばらく角度を変えたり唇を滑らせたりして堪能していれば、監督生の顔が苦しげに歪められる。息継ぎのために一瞬だけ解放してやると、監督生は大きく息を吸い込んだ。

 酸素を取り入れた様子を見届けてから、再び口付ける。監督生が目を見開いた。どうして、と視線で訴えてくるのを無視して舌先で唇を突けば、ますます頑なに引き結ばれる。
 ……さすがにここでこれ以上進めたら怒るだろうな。
 機嫌を損ねたいわけではないので、ひとまず素直に引くことにした。

「っは、……話した、のに、何でっ……」
「可愛いこと言うお前が悪い」
「どういう理由ですかそれ……!」
「伝わらねーならもう一回してやろうか?」
「……いえ、わかったので大丈夫です」
「そりゃ残念」

 笑いながら立ち上がり、グ、と体を伸ばす。気づけばだいぶ話し込んでいたらしい。空はとうに赤く染まり、周りは薄闇に包まれ始めていた。
 完全に暗くなる前に戻りたい。
 目線で促せば監督生も手早く荷物をまとめ、俺の隣に並ぶ。

「それじゃあ、今からその“気の抜ける”場所で、思う存分だらけるとするか」

 言いながら、細腕に抱えられた本をスルリと奪う。空いた手に指を絡めれば、きゅ、と控えめに握り返された。

「……だらけるだけ、ですか?」
「他に何かやりたいことでもあるのか?」
「やりたいこと、というか」

 またしても煮え切らない態度に戻った監督生を「またキスされたいってサインか?」と揶揄えば、「今度はちゃんと言いますよ」と苦く笑い返された。
 繋いだままプラプラと揺らして遊んでいた手を、軽く引かれる。
 内緒話をするように口元に手を添えた監督生が、腰を屈めた俺に少し掠れた声で囁いた。

「……先輩の部屋で、さっきの続き、したいです」

 思わず足を止めて見下ろせば、夕焼け色の監督生が照れくさそうにはにかんだ。

 あぁ、部屋までの距離がもどかしい。
 グル、と鳴った喉の音を誤魔化すように、小さな頭をぐしゃりと掻き乱した。

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