眠れぬの熱を食む

 肌を伝う雫の感触に、ふわりと意識が浮上した。
 暑い。
 ぼんやりと霞がかった思考の中、真っ先に抱いた感想はその一言だった。
 粘つくような生温い空気に包まれる室内はまだ暗く、自身の隣では監督生がくうくうと寝息を立てている。
 その表情こそ穏やかではあるが、監督生の肌にも薄っすらと汗が滲んでいた。

 夜闇にぼんやりと浮かび上がる白いシーツの上、控えめに広がる監督生の湿り気を帯びた髪を一撫でしてから上半身を起こし、こみ上げてきた欠伸を噛み殺す。
 随分と半端な時間に目を覚ましてしまったようだ。

 水でも飲むか、と監督生を起こさぬよう静かに立ち上がろうとしたが、ベッドのスプリングの振動はしっかりと伝わってしまったらしい。
 寝起き特有の掠れた舌っ足らずな声に呼ばれ、振り返る。

「れおなせんぱい……?」
「悪い。起こしたな」
「ん……いえ、だいじょうぶです。どうかしましたか?」
「暑くて目が覚めただけだ。お前は寝てろ」

 寝ぼけ眼を擦りながら体を起こそうとする監督生を止めて、少し乱れた前髪の隙間から額に口付ける。
 ちゅ、と軽くリップ音を鳴らしてから離れれば、監督生はへにゃりと笑み崩れた。
 気の抜けるそれにつられて自身の口元も弛むのを感じながら、白くまろい頬に指先を添える。
 輪郭をなぞるように動かせばくすぐったいのか、監督生がクスクスと笑い声を上げながら身をよじった。

「汗かいてるな」
「私も暑くて。珍しいですね、こんなに暑いの」
「また空調でもおかしくなったか……」
「それは困りますねぇ……長引かないと良いですけど」
「お前も飲むか?」

 棚に備えてある水差しのところまで移動して尋ねると、監督生は少しの逡巡の後に頷いた。
 アンティーク調の意匠で作られた水差しには魔法で加工が施されていて、外気の影響を受けずに常に適温を保つようになっている。
 取っ手を通して伝わってくるひんやりとした温度は、火照った体に丁度いい。
 近くにあったグラスと一緒に持ってベッドまで戻り、グラスの半分くらいの高さまで注いでやった水を監督生に差し出す。

「零すなよ」
「わ、わかってますよ」
「前科があるからな」
「あれは先輩が……!」

 声のトーンを高くして反論しようとした監督生の顔が、暗闇の中でもはっきりとわかるほどに赤く染まる。
 以前、同じように水を飲もうとしていた監督生にちょっかいをかけていたら勢い余ってグラスごも中身をひっくり返したときのことを指摘しようとしたのだろう。

「俺が、何だって?」
「何でもないです!」

 あのときは二人して水を被る羽目になったのだが、髪やら肌から水滴を垂らしながら呆然としている姿があまりに間抜けに思えてつい吹き出したら、監督生が拗ねてしまったのを覚えている。
 しかし、ぷりぷりと怒りながらもタオルを探しに行こうとする背中を引き止め、濡れている服の一部に魔法をかけて何も影響が無いことを確認してから他の部分も同じように魔法で水分を蒸発させてみせれば、監督生は一瞬驚いてから「魔法って便利ですね!」と目を輝かせていた。

 直前の不機嫌な様子はどこへやら。
 一気に上機嫌となった監督生の単純さに呆れつつも、真っ直ぐな言葉と表情で賞賛されるのは悪い気がしなかった。
 そもそも濡れ鼠となった原因は俺にあったのだが、監督生にとっては大した問題ではなかったらしい。
 さらに監督生に施してやったように自分の濡れた服や髪も乾かしてみせたら、さらに興奮冷めやらぬ様子ではしゃいでいた。

 頬を紅潮させて全身で楽しいという感情を表す姿はとてもあどけなくて。
 無意識に伸びた手が監督生の柔らかな髪を愛でるように撫でていた。
 手を丸い頭の上で往復させるごとに、唐突な行動に固まっていた監督生の表情が次第に解けていく様は俺を何とも言えない心地にさせた。

 確かあの後、触れ合ううちに気分が高揚していき監督生を押し倒して、結局夜が明けるまで睦み合うことになったのだったか。
 横で良くわからない唸り声を上げて悶えている様子から察するに、その辺りのことも一緒に思い出しているようだ。

 良いからさっさと飲め、と促せば、ハッとした監督生がグラスに残っていた水を一気に呷る。
 お礼とともに返されたグラスに自分用の水を注いで喉を潤していると、横から突き刺さるような視線を感じた。

「汗が……」
「暑いからな」

 ポツリと漏れた言葉は独り言のつもりだったのだろう。
 返答があるとは思っていなかったようで、監督生はきょとんとしていた。
 肌を流れる雫が煩わしくて適当に払っていれば、手近に転がっていたタオルを見つけてきたらしい監督生の手が伸びてきて、丁寧に拭われる。
 しばらく身を任せてから、一通り拭き終わって満足気な監督生の唇に礼代わりのキスを一つ落とした。

「寝ましょうか」
「ん」
「あ、せんぱい」
「?」

 不意に呼ばれて顔を上げれば、額に熱を帯びた柔らかなものが触れる。
 それは軽く音を立ててすぐに離れてしまったが、残された感触の余韻を指で確かめていると監督生が「さっきのお返しです」と少し照れ臭そうにはにかんだ。

「…………」

 不意をつかれて呆けてしまったことに気づいて、眉根に力が篭もる。
 監督生は気恥ずかしいのか、落ち着かない様子で皺くちゃになっているブランケットを直したり、枕を揃えたりと寝支度を整え始めていた。

 待てども絡まない視線がもどかしくて、忙しなく動く監督生の背中に覆い被さる。
 驚いて振り向いた唇を塞ぎながら、力を込めて細い体をシーツの上に押し付けた。

「んっ……せんぱ、寝ないんですか」
「気が変わった。どうせお前も暑くて寝付けないだろ?」
「もう……ほどほどにしてくださいよ?」

 呆れた声音とは裏腹に口角の上がっている監督生の口元をペロリと舐める。

「それはお前次第だな」
「えぇ……」

 言葉を交わしながら監督生の体に手を這わせれば、布越しに感じる体温も徐々に高まっていった。
 際どいところにはあえて触れずに撫で回しながら、触れるだけのキスも一緒に繰り返す。
 少しずつ力の抜けてきた監督生の体が、縋るようにしなだれかかってきた。
 この様子であれば、もうひと押しだ。
 うっとりと蕩けてきた表情を見て、クツリと喉を鳴らす。

「もう寝かせてやれないかもなァ」

 耳元で囁けば、小さな肩がビクリと跳ねた。何かを堪えるように頼りなげに震える姿は囚えられた獲物のようで。
 ――あぁ、だから『お前次第』だと言ってやったのに。ゴクリと唾を飲み込む。
 もう、止められそうな気はしない。

 監督生のこめかみから伝った一筋の雫を追いかけるように、無防備にさらけ出された首筋へとかぶりついた。