の朝は早い。
に限らず、離宮に勤める者のうち夜番などで深夜まで働いている者を除いたほとんどが、まだ日も登りきらないうちから働き始めている。
もまた彼ら彼女らと同様の勤務形態であるというだけのことである。
そもそも庭師であるは、本来であれば侍女や近衛兵たちとは違い時間の縛りが緩い。しかしあえては、他の使用人たちと同じ時間帯で作業をするようにしていた。その方が何かと都合が良いからだ。
植物たちの状態を確認するのも、まだ夜露をまとったままの状態の方がその日に与える水の量などの調節をしやすい。
「さぁて、今日も一日頑張りますか」
はひんやりとした早朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、両手を腰に当ててむんと気合を入れる。の横でふよふよと宙を漂う二人の妖精たちも、それぞれ気合を入れるように拳を掲げた。
の仕事は妖精たちから前夜の中庭の様子について報告を受けることから始まる。
報告といっても、に妖精たちの言葉はわからない。そのためは自身の脚で中庭を回り、妖精たちの身振り手振りを頼りに意思疎通を図りながら全体を確認していくのだ。
この方法では手間はかかるが、が植物たちの様子を見られない間代わりに中庭を見守ってもらえるため非常に助かっている。
夜になると活動的になる妖精は多い。と契約している妖精たちも同様で、何より彼女たちは生きるための睡眠を必要とはしていない。
昼間妖精たちの作業が無いときは二人仲良く『秘密基地』で眠っていることも多いが、休息というよりも日向ぼっこや遊びの一貫らしい。の知る中で唯一妖精たちと言葉を交わせるリリアという男を介し、直接妖精たちから教えてもらった情報であるため、信憑性は確かだ。
リリアは以前妖精の片割れが起こした事件の解決に至った中での協力者の一人でもある。
そして彼はどうやら、茨の谷の現領主——マレウス・ドラコニアの補佐官のような立場にある人物らしい。『ような』と認識が曖昧なのは、はリリアの役職や素性についてあまり詳しく教えてもらえていないからだ。
妖精関連の事象でレオナから頼られる程度には信頼の置ける人物らしいので、リリアの素性を疑ってはいない。しかし気にならないわけではないので本人に尋ねてみても、「知る必要があれば自ずと知るときが来るじゃろう」と毎回はぐらかされて終わってしまうのである。
その割に連絡先はあっさり教えてくれた上、妖精たちに関する相談をすれば気軽に応じてくれる。少年のような見た目——実年齢は見た目よりもずっと上らしい——で人を煙に巻くような話し方をする彼は掴みどころのない男だが、のことはそれなりに気に入ってくれているらしい。
やたらとを揶揄ってくる悪戯好きな点を除けば、としてもリリアのことは好ましく思っていた。
リリアは普段茨の谷で暮らしている。そして旅行が趣味らしく全国各地を飛び回っていることもあってなかなか会う機会は無い。またいつか、顔を合わせて話したいものである。
「うーん……最近ベロニカが元気が無いみたいだけど、まだ手を加えなくても問題は無さそうね。もう少し様子を見てみましょうか」
「————」
の判断に賛同するように妖精たちが頷く。
や妖精たちが魔法で手を加えれば、植物の成長を促したり無理やり元気にすることもできる。しかしそれでは、植物たちが本来備えている厳しい自然の中でも生き抜くための生命力が損なわれてしまう。
そのため妖精たちとも相談しながら必要最低限の範囲でしか手を加えないように気を付けている。自然に任せるべきところは任せ、あくまでサポートに徹する育て方が最も植物たちを輝かせることができる。
「このエリアはオッケー、と」
独りごちながら、手元の書類に確認事項を書き込んでいく。書類は植物たちの日々の状態を記録するため、自ら作ったものだ。
中庭を大まかにエリア分けした図や各区画に植えてある植物の一覧が添えてあり、それぞれ気になる点などを記しておくことができる。
は南東側のエリアにチェックを入れてから、次のエリアへと足を向けた。
次のエリアは、ここ数日ほどが特に気にかけている花がある場所だ。
「わ、昨日より膨らんでる?」
「——!」
の質問に、茶色いひっつめ髪の妖精が嬉しそうにコクコクと頷いた。
たちの足元では、たくさんの小花の蕾が一つの房に寄り集まったものがいくつか佇んでいる。これらは、つい昨日レオナにも話したプリマモーレの蕾だ。
は懐から取り出した携帯端末でプリマモーレを写真に収めると、小さな画面の中に映る姿を見てにんまりと笑みを浮かべた。
プリマモーレが前回花を咲かせてから、まだ二週間ほどしか経っていない。しかしすでに二度目の開花に向けて着々と成長している。予想していた開花時期よりもだいぶ早いようではあるが、開花にも個体差はあるため誤差の範囲だろう。
そして、次こそはプリマモーレが咲いている様子をレオナにも見てもらいたいと開花の兆候が見られてからは特に気にかけていた。
なにせプリマモーレの花は、開花してから数時間後には閉じてしまうのだ。育てているでさえ、必ずしも開花に立ち会えるとは限らない。立ち会えたらラッキー、というくらいのレア物である。
花そのものはとても愛らしく評判も良いのだが、常に状態を気にかけていなければ開花に気が付けない可能性が高いという点と、さらには育成の難易度も高めで、綺麗に咲かせるためには少々コツがいる。そのためわざわざプリマモーレを植える庭師は少ないらしい。
プリマモーレは景観のためというよりも、あくまでが個人的な好みで植えさせてもらったものだ。が初めてプリマモーレを目にしたのは、祖父に連れられて行った輝石の国の植物園。愛らしい見た目や面白い性質に惹かれて以来、いつか自分でも育ててみたいと思っていた。
しかしが独り立ちすることをまだ祖父から認めてもらえていなかった頃は、プリマモーレを含む一部の植物は一人で育てることを禁止されていた。祖父からは「一人で庭を任されるようになってから育てなさい」と言い付けられており、いずれも新しく植物を育て始める場合には前もって祖父に確認を取る必要があった。
「まぁ、まだあの頃はおじい様にも指導を受けてる真っ最中だったし……どのみち上手く育てられなかったでしょうしね」
それを踏まえると、我ながらずいぶんと腕を上げたものである。
元々夕焼けの草原には生息していない種だが、適度な乾燥を好む性質のため多少水やりに気を遣ってやれば育てること自体は可能だ。綺麗な花を咲かせられるかどうかは、の腕の見せどころである。
前回咲いたプリマモーレは花が小ぶりではあったが、なかなかの咲きっぷりだったと思っている。写真を祖父に送った際には、初めてにしては上出来だと褒めてもらえたほどだ。
がひとり感慨にふけっていると、妖精たちが不思議そうに揃って小首を傾げた。愛らしい姿の二人が同じタイミングで同じ動きをする様はなんとも微笑ましい。
は妖精たちの頭をそれぞれ優しく撫でてから、携帯端末に視線を落とした。
そして、今しがた撮ったプリマモーレの写真を見つめながら、とある問題について悩み始める。
問題とは、『プリマモーレの写真をレオナにも送るか否か』というものだ。
送りたい気持ちがあるため、さっさと送ってしまえば良い話ではあるのだが……が躊躇ってしまうのには理由がある。
とりあえず開いてみたメッセージアプリでのレオナとのやり取りは、昨晩レオナから送られてきた「夜ふかしするなよ」という一言で止まっている。
昨晩たまたま会ったラギーに相談に乗ってもらっていたは、その後レオナとも会った。レオナからメッセージが送られてきたのは、が二人と別れた後のことである。
メッセージは送られた側がアプリを開くと、送った側に既読の表示がされる。そのためがすでにメッセージを読んでいることは、彼も把握しているはずだ。
いつもならばメッセージに気が付いた時点ですぐに返事を送っている。しかし今はレオナのことを考えるだけで昨晩のできごとを思い出してしまい、指が動かなくなる。
メッセージはが眠る前には気が付いたので、すでに数時間も経ってしまっている。早く返事をしなければと思えば思うほど、何を言えば良いのかわからなくなってしまっていた。
「……レオナさん、昨日のこと、どう思ったのかしら」
昨晩、はラギーのアドバイスを受け、レオナ相手にさっそくそれを実践してみた。
の方から、レオナにキスをしたのである。
ただし、唇ではなく頬にだ。
そもそもの発端となった悩みの内容から考えると唇にすべきだったのかもしれない。しかし、はあのとき頬にキスするので精一杯だった。
それでも思い出すたびに恥ずかしくてたまらないのだから、もし唇にしていたら今頃羞恥で爆発してしまっているかもしれない。
――あのとき、少しだけ屈んでほしいと頼んだにレオナは躊躇いなく従ってくれた。
ゆっくりと近付いてきた端正な顔。
へまっすぐ向けられる大好きなみどり色を見つめながら、は腕を伸ばした。
いつもよりも低い位置にある肩へ手を置き、それでも届かない身長差を埋めるために少しだけ背伸びをして。
そして……――
「ッわぁぁ! 思い出さないでー!」
は顔を真っ赤に染め、脳裏に浮かんできた光景を振り払うべく頭上で激しく両手を振った。
の側で談笑していた妖精たちが、突然の行動にぎょっと目をむき距離を置く。何やら見覚えのある反応であるが、には構っていられる余裕は無かった。
「うぅ……どんな顔して会えば良いの……」
レオナはきっと今日も中庭へやってくるだろう。
会いたくないわけではない。しかし普段しないようなことをしたということもあって、どうにも気恥ずかしくてたまらない。
しかも、だ。キスした後、は堪えきれず逃げるようにしてその場を去ってしまったので、なおさら気まずいのである。いっぱいいっぱいだったこともあり、あのときレオナがどんな表情をしていたかも思い出せない。
驚いていた気はするけれど、果たして喜んでくれたのだろうか。
は散々悩んでから、結局写真はマジカメに投稿するだけに留めることにした。
レオナへの返事は、もう少し落ち着いてからにしよう。
小さくため息を吐いてから、携帯端末を操作する。
は最近になってからマジカメの個人アカウントを頻繁に更新するようになった。投稿しているのは、主に自分が育てている植物の写真だ。
投稿は場所や王宮勤めであることを伏せることを条件に、レオナからも許可を得ている。アカウントのプロフィールには庭師である旨を記載しているが、実情を知らない人が見ても詳細はわからないだろう。
とはいえ、そもそものアカウントと繋がりのある者はほとんどが身内や友人であり、他には知己の同業者しかいない。その中には公的には明かされていないレオナやチェカの個人的なアカウントも含まれている。
チェカは公的なアカウントでの投稿はまだ許されていないらしく、あくまで一般人の体でアカウントを持っている。そのアカウントの正体を知るのは、以外では彼の両親である国王夫妻とレオナ、同級生数人だけだそうだ。
何故その面子の中にが加えられているのかは不明である。
レオナも同様に個人的なアカウントを持っているが、学生生活を満喫している投稿の多いチェカに対し、レオナのアカウントはほとんど活用されていない。学生時代の元同級生たちとも繋がっているらしいが、面倒だと言ってろくに更新していない。
明るさなどを調整した写真を投稿してから、は携帯端末をポケットに戻した。そしておもむろに立ち上がり、近くでの様子を見守っていた妖精たちに声をかける。
「プリマモーレが咲いたら、また教えてね」
前回花が咲いた際は運良く作業中だったため、開花に立ち会うことができた。しかしもし夜間に咲いてしまえばが花を見ることは難しいため、妖精たちにはプリマモーレの花が咲いた際にと繋がる魔力を利用して知らせてもらうように頼んである。
から頼まれた妖精たちは、「任せてちょうだい」とばかりに胸を張った。
やがて日も高く上り、が中庭全体の確認と必要な水やりなどの作業を半分ほど終えた頃。
作業着のポケットにしまっていたの携帯端末が小さく振動した。取り出して見てみれば、マジカメからの通知が一件表示されている。
「あ、マッスル紅さんがコメントしてくれてるわ」
『マッスル紅』という人物はと同様に植物への関心があるらしく、彼女の投稿——とりわけ植物の写真によくコメントをくれていた。
「マッスル紅さん、なんとなく誰かを思わせるのよね。誰だったかしら……」
思い出せそうとしても思い出せずモヤモヤが残るが、いつかどこかのタイミングで突然思い出せるときもあるだろう。は目の前の作業に集中すべく、頭を振った。
そのとき、廊下に面する中庭の入口側から人の気配が近付いてくることに気が付いたは再び手を止めた。時間を確認してみるとまだ正午になる前だった。レオナがやってくるにしては、だいぶ早い時間だ。
休憩しにきた使用人の誰かだろうか。
しかしもしそうならば、に用が無い限り噴水の方へと直接向かうはずだ。
不思議に思いながらも、は使っていた道具をその場で簡単にまとめると気配のする方向へと歩き出した。
が自身の背よりも高い植木を回り込み覗いてみると、
「こんにちは」
愛らしい顔の美少年が、にこにことこれまた愛らしい笑みを浮かべて立っていた。
キャラメルブラウンの肩ほどの長さの髪を揺らす少年は、この国の王太子——そう、現在RSAに通うため賢者の島の寮で暮らしているはずのチェカである。
この場にいるはずの無い人物の登場に、は目を見開いた。
「チェカ様ッッ!?」
「やぁ、驚いた?」
それはもう、驚いたに決まっている。思わず指を指してしまったことは許して頂きたい。チェカは全く気にしていないが、チェカの背後に佇んでいた護衛らしき男が眉をひそめた。
は慌てて居住まいを正す。まずは挨拶をしなくては。
「ご機嫌うりゅ、麗しゅう、王太子殿下!」
「あは、いつもみたいに話してくれて大丈夫だよ」
動揺を抑えきれずに噛んでしまったを、チェカが朗らかに笑い飛ばす。
は軽く咳払いしてから、改めてチェカと向き直った。
一瞬視線がかち合った護衛の訝しげな表情は「お前は誰だ」とでも言いたげだ。そんな護衛の心情を察したらしいチェカが振り向き、「彼女は僕の友人なんだ」とフォローを入れてくれる。
チェカ本人がこう言ってくれたのだから、護衛の方は気にしなくても大丈夫だろう。
はいつも通りの口調に戻して、チェカに声をかけた。
「チェカ様、帰ってきたんですね」
「敬語も要らないっていつも言ってるのになぁ……公務があって数日だけね。ついさっき着いたんだ」
「さすがにこれ以上砕けて話しちゃうと周りの視線が痛いので……」
がちらりと護衛を窺うと、今度はそっと視線を逸らされた。自分は見ていないという意思表示だろうか。二人の無言の応酬を見て、チェカは「残念」と肩をすくめた。
「チェカ様、前より髪伸びましたねぇ」
「髪は伸ばしてるんだ。長い方が威厳があるって言うからね」
「フフ、お似合いです。髪もですけど、背もすっごい伸びましたよね? こんなに高かったでしたっけ」
「わかる? 一気に伸びたみたいで……嬉しいけど色々と大変だよ」
最後に会ったときよりも、視線がだいぶ上の方にある気がする。
複雑そうな顔で笑ったチェカに、は成長期のすごさを改めて感じた。短期間で急激に成長したとなると、体の痛みもひとしおだろう。
「大変ですね……あ、湿布薬とか使いますか? 私が作ったやつですけど、
「それは助かるな。ただ、えっと……僕ってホラ、王宮の医務官の許可が下りてるものしか使っちゃいけないことになってるから……」
「あ、それもそうですよね……すみません、差し出がましいことを」
「気にしないで。ありがとう」
チェカが眉を下げて笑う。
「君も魔法薬の調合ができるんだね」
「はい! 中級の認定資格までなら持ってるので、自分で調合した薬を販売したりもできちゃいますよ」
「へぇ、すごいなぁ。僕はまだ薬草の種類も覚えきれてないや……」
「授業で使うだけでも相当な種類がありますからね」
感心した様子で頷くチェカに、は誇らしげに胸をそらした。魔法薬を調合するための認定資格は国際資格のため、取得の難易度はかなり高い。そのため、その資格を持っていることはにとっても自慢の一つだった。
魔法薬の調合は専攻のあるハイスクール以上か、魔法士の養成学校でしか学ばない。学園の授業内では有資格者の指揮管理の下であれば種類を問わず全ての魔法薬の調合が認められているものの、その他では認定資格を持たない者による調合は一律禁止されている。
認定資格は一部の魔法薬の調合は初級から、魔法薬を調合した者に関係なく販売や譲渡には中級の国際認定資格がそれぞれ必要になる。さらには上級の認定資格というものも存在し、そちらも取得すれば魔法薬全般を制限なく扱うことができるのだ。
ただ、魔法薬を実際に販売するとなると資格以外にも必要な手続きや申請書類、定期的な監査など事務処理の負担がかなり多くなる。そのためは資格こそ有しているもののあまり活用する機会は無く、自身や知人が必要な際にしか調合をしていない。
そもそもが認定資格を取得したのも、特定の薬草を栽培するために必要だったからだ。それには中級の認定資格さえあれば事足りるため、専門のカレッジで四年間以上の履修歴が必須となる上級の認定資格の取得は目指さなかった。
「ね、さっきマジカメに上げてた写真の花、見ても構わない?」
「見てくれたんですね! こっちにありますよ」
関心を持ってもらえたことが嬉しくて、は意気揚々とチェカをプリマモーレの元へと案内した。
プリマモーレは特殊な性質を持ち、開花時間が他と比べて短いことや花が咲くたびに色が変わることを説明すると、チェカは興味深そうにまだ蕾の状態のプリマモーレを眺める。
「咲くのは次が二度目なんだよね?」
「そうなんですよ。これが前回咲いた花の写真です」
携帯端末を操作して、プリマモーレの花の写真をチェカに見せる。
「へぇ、可愛い花だね。きっと君に良く似合う」
「……褒めても新しいレオナさんのニュースは出てこないですよ」
「フフ、そういう意味じゃないって。本当に思ったから言っただけだよ」
「それはそれで末恐ろしいですよ、チェカ様……」
ごく自然に褒められ、思わず熱くなってしまった頬をが両手で隠す。照れるに、チェカがクスクスと笑った。
「チェカ様、そろそろ……」
「あぁ、うん。さすがにもう行かないとだね」
護衛から耳打ちされ、チェカが立ち上がる。
「せっかく会えたのに名残惜しいな。王宮にいる間にまた来ても良い?」
「もちろんですよ。お待ちしてます」
「ありがとう」
チェカはこの後、レオナへ会いに行くそうだ。「おじさんに挨拶した後は一緒に父様たちのところへ行くんだ」と嬉しそうに話してくれたチェカを見送り、は小さく息を吐く。
一緒に、ということはレオナもしばらく離宮の方へは戻ってこないのだろう。
今日はレオナとは会えなさそうだ。
は残念なような、しかしいまだに恥ずかしさが消えない故ほっとしたことも否めなくて、少々複雑な気持ちだった。
レオナへの返事も、いまだにできていないままである。
「……結局、こんな風に引きずっちゃうのはやっぱり私がまだ子どもだからってことよね」
恋愛経験も豊富な大人の女性であれば、もっと自然に積極的になれるのだろうし、そのたびにいちいち恥じらったりもしないはずだ。そうすればきっと、レオナも色々とやりやすかろう。
しかし、こればかりはラギーの言うとおり経験を積んでいくしかない。自身もよくわかっている。
家を出て、仕事をして、ひとりで生活をできるようになったとて、全てに対して完璧になれるわけではない。特に恋愛という分野は、これまでのにはまるで縁のなかったものだ。
レオナのことをがむしゃらに追いかけてはきたが、それはあくまで一人の人間に対する『憧れ』が原動力であって、きっと恋愛感情とはまた別のものなのである。
そう、思っていた。
しかしの事情を知った者たちは皆が皆、口を揃えて言う。
の『憧れ』は、『恋』の延長線上だ、と。
現に、レオナからの告白もは驚きはしたが、確かに嬉しかったのだ。だからこそ、彼のことを受け入れられた。
自分にとってレオナは特別な存在であって、きっとこの先の人生でレオナ以上に想える人間は現れないだろう。
この気持ちが本当に『恋』であると言うのならば。
は指先でそろりと自分の唇に触れる。
きっと次こそは、キスもできるはずだ。
レオナはのペースで良いと言ってくれたが、よりもずっと年上で経験も豊富であるはずの彼が我慢をしていないはずが無い。
「早く、慣れなきゃ」
目を伏せて、自分に言い聞かせるように口にする。
が寄り添うことで、とは比べものにならないほど大変な立場で生きているレオナにわずかでも安らいでもらえるのならば。
それはどんなにか、幸せなことだろう。
「いつまでも、甘えてなんかいられないわ」
『憧れ』の隣に立つに相応しい人間に。
は胸の前で両手を組み、思う。
「早く『大人』にならなきゃ——」
が強く願った。
そのとき。
「きゃっ……!」
突然、強い風が吹いた。
瞬く間に過ぎ去った風は、驚いて身をすくませたの元へ甘く芳醇な香りだけを残していった。がこれまで嗅いだことのない、華やかな香りだった。
「いったい何の……?」
はふと足元を見る。
視線の先には、開花のときをいまかいまかと待ち侘びる可愛らしい蕾たちの姿があった。
「まさか、プリマモーレの……ううん、プリマモーレはこんな風に香る花じゃ——」
確かめるべく膝を付き、プリマモーレに鼻を寄せる。
プリマモーレの蕾からは、確かに先ほどが嗅いだものと同じ香りがしている。
この花に付けられたプリマモーレという名は『初恋』という意味も兼ねている。
慎ましやかで愛らしい咲き方や、咲くたびに色を変える不思議な性質と、ふわりと優しく鼻をくすぐるような甘やかな香りが特徴だったはずだ。
「……でも、良い香りね」
もしかしたら、環境や育て方により香りの強さも変わるのかもしれない。
作業が終わったら、またプリマモーレについて調べてみよう。
そう心に決めて、は目の前の蕾たちをうっとりと眺めた。
もう少ししたら、きっと可憐に咲き誇る姿を目にすることができるはずだ。
果たして、今度はどんな色の花が咲くのだろうか。
は期待に胸を膨らませながら、作業をしていた場所へと戻っていった