「それでは妃殿下、何かありましたらお呼びください」
深く頭を下げた後、私の寝支度を手伝ってくれた侍女さんは静かに部屋を出ていった。
『妃殿下』――この世界にやってくる前までは、いや、やってきてからも数年は全くの無縁だった敬称で呼ばれるようになってから、早数ヶ月。その数ヶ月というのは、イコール私がレオナさんと正式に婚姻を結んでからの期間だ。
私は今、レオナさんの故郷である夕焼けの草原の王宮の離れで、レオナさんとともに夫婦として生活している。
何の後ろ盾も、ましてや身分すら確実でなかった自分が、まさか本当に王族の一員として名を連ねることになるだなんて、まだあまり実感が湧かない。
とはいえ私の気持ちなど関係なしに、私の立場が『第二王子』の配偶者となったことも、同時にこれからはその立場にふさわしい役割と責任を負わなければならないことも、揺るぎない事実なのである。
「えーと、明日の予定は……午前中は歴史の授業とマナーレッスン、午後は王妃様とお茶会、と」
先ほども侍女さんとともに確認していた明日のスケジュールを改めて確認し、前回の歴史の授業で教えてもらった範囲をもう一度復習しておこうと部屋に備え付けられた書棚の前へと移動する。
本来であれば、王族に必要とされる最低限の知識やマナーは婚約期間中に学び終えている予定だった。しかし私がNRCを卒業してからさほど時間を置かずに婚姻まで進んでしまったため、現在進行形で専属の家庭教師から様々な授業を受けている真っ最中なのである。
歴史の授業は学生時代にも受けていたが、今学んでいるのは専ら夕焼けの草原に関する歴史についてだ。
しんと静まり返った部屋の中、ぱらりと私が紙をまくる音だけが響く。
一通り復習を終えたところで近くに置いていた端末で時間を確認すると、画面には『23時53分』と表示されていた。
「えっ、もうこんな時間……!?」
私は慌てて教本を元の場所へと戻すと、再び端末を手に机――ではなく、ベッドの縁へと腰を下ろした。
一日の疲れを溶かし包みこんでくれるようなふかふかの感触に癒やされながら、じっと端末の画面を見つめる。
一分、また一分と時間が進んでいくのを眺めて、ついにその数字が『0時00分』に切り替わった瞬間、私は画面に指を滑らせて電話の発信ボタンを押した。
コール音が流れ始めるのを聞きながら、私の背は自然とまっすぐに伸びていく。
やがてプツリと音が途切れ、代わりに微かな息遣いが耳に届いた。
「も、もしもし!」
しまった、声が上擦ってしまった。
第一声からしくじってしまい、誰に見られているわけでもないのに顔に熱が集まる。
さらに電話口の向こうから吹き出す声が聞こえて、ますます居た堪れない気持ちになった。
『――慌てすぎだろ』
ひと呼吸の後、耳の奥へと甘く響いたのは、笑い混じりのレオナさんの声。
「なんだか緊張しちゃって……」
『何でだよ』
「電話で話すの、久しぶりじゃないですか。何だか不思議な気分なんです」
『まぁ、一緒に暮らしてりゃ電話する機会もなかなか無いからな』
機械越しだからだろうか。いつもよりもかすれて聞こえる声のトーンは、どことなくソワソワとしている私とは裏腹に落ち着いている。
おかしそうに笑いながらからかってくるレオナさんの声を聞いていると、強張っていた私の体からは少しずつ力が抜けていった。
私は気を取り直すように一度咳払いをしてから、レオナさんの名前を呼ぶ。レオナさんが聞く体制になってくれた気配を確かめてから、口を開く。
「お誕生日、おめでとうございます」
誰よりも早く、伝えたかった言葉。
このために私は予め、今夜日付が変わったら電話をかけさせてほしいとレオナさんにお願いしていたのだ。
本当なら顔を見て直接言えたら良かったのだけど、実はレオナさんは今、この夕焼けの草原からは離れた輝石の国のとある街を訪れている。
それは何故かというと、その街で行われる古代呪文語の研究者たちによる学会へと参加するためだったのだが、学会の日程がレオナさんの誕生日と被ってしまったのだ。
学会というからにはレオナさんの他にも参加者が多数いるわけで、もちろん日程の変更などできるはずもない。さらに今回はレオナさん個人ではなく、夕焼けの草原の代表として参加することになっているため欠席するわけにもいかず……レオナさんは不承不承ながらも今朝早くに国を旅立っていった。
今回の訪問は三日間の予定で、学会以外にも輝石の国の偉い人との会食などの公務も予定されているらしい。
「今夜はもうお仕事は終わりですか?」
『あぁ、少し飲んでた』
「え、珍しいですね」
『この街の名産の果実酒があってな。祝いの献上品だとよ』
「へぇ、美味しいですか?」
『まぁまぁだな』
レオナさんはその育ちから、一流の味というものを知っている。故に美味しいと感じる基準は高いらしく、味の評価に関しては基本的には辛口である。
そんなレオナさんが「まぁまぁ」と評したということは、そのお酒は「とても美味しい」と思っても良いだろう。私はまだお酒は飲めないけど、いつかレオナさんと一緒に飲んでみたいものだ。
「レオナさんが帰ってきたら、私もプレゼント渡しますね」
話しながら、チラリと私専用の書棚を見やる。一ヶ月前に夕焼けの草原の王都、暁光の都で密かに調達したレオナさんへの誕生日プレゼントは、贈る相手である本人には見つからないよう本でカモフラージュした状態で書棚の奥に隠してあった。
『今年は何にしたんだ?』
「ふふ、それはまだ内緒ですよ」
『当ててやろうか』
「……え、もしかして知ってるんですか?」
『俺は何も知らねーよ。誰かさんが俺に漏れないように、巧妙に対策してたみたいだし』
レオナさんの返答に、ホッと胸を撫で下ろす。
別に、サプライズというほどに大仰なものを用意しているわけではない。
もし私が用意したプレゼントの正体を知られていたとしても問題が無いと言えば無いのだけど、やはり年に一度しかないせっかくの機会なので本人には開けてもらう瞬間まで秘密にしておきたいとも思ってしまうのだ。
『わざわざ変装までして買いに行ってくれた物が何なのか、期待してるぜ』
「そこはバレてるんですね……」
『報告に上がってきたからな。気を利かせたのか、何を買ったのかは伏せられてたから安心しろ』
「じゃあ、開けるときまでのお楽しみですね。今年は少し奮発したんですよ」
『へぇ』
「あ、レオナさんの基準で想像しないでくださいね。そのハードルは超えられる気がしないので」
『ハイハイ』
呆れたような声音から、レオナさんがやれやれと肩をすくめる姿が目に浮かぶ。
レオナさんのお誕生日はもう何度かお祝いしたことはあるものの、王族である彼を相手に何を贈れば良いものか、毎年とても頭を悩ませている。
ちなみに去年まではレオナさん個人が使えるような物を選んでいたけど、今年は趣向を変えて私とお揃いで使える物にしてみた。喜んでもらえたら嬉しいなぁ。
レオナさんが私からのプレゼントを開けてくれる瞬間が待ち遠しくて、じっとしていられずについ足をぷらぷらと揺らす。
『今日は何してたんだ?』
「今日はですねぇ――」
そのまま私の一日についての話題へと変わり、今日受けた授業の内容や、ちょっぴりおかしかったできごと、初めて食べた夕食のメニューについてなど、他愛もない話をしたりしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
「それで、前回は象の墓場の話を聞いたんですけど」
『――時間、まだ大丈夫か?』
「あ……時間経つの、早いですね」
不意に問われて確認してみれば、すでに時刻は一時を回っていた。
名残惜しいけど、明日も――日付が変わったから今日か――レオナさんはまた学会の続きや公務の予定がある。
まだまだ全然話し足りないのだけど……きっとレオナさんは朝も早いだろうから、これ以上付き合わせてしまうわけにもいくまい。
そろそろ切りますね、と伝えようとしたところで、レオナさんが「ところで……」と切り出した。
『俺が今泊まってるところはずいぶんと静かでな』
「……? そうなんですね」
すでに深夜と言っていい時間帯だ。多くの人が寝静まり、シンとしていても何も不思議は無い。
『毎日誰かさんが横で寝ぼけながらその日のできごとを話してくるもんだから、俺の体もすっかりそれに慣れちまったみたいでな。静かすぎて、逆に落ち着かねぇんだ』
落ち着かないという、いつも悠然としているレオナさんにしては珍しい状態に、パチリと瞬いた。
私とレオナさんはともに暮らしているとはいえ、互いにそれぞれのお役目があり、昼間はあまり一緒に過ごせないことの方が多い。
だからその分、毎晩レオナさんが寝室まで帰ってきた後に可能な限り二人きりの時間を過ごしてから眠るというのが日課になっていた。ただ、レオナさんは第二王子という立場的にも私よりもずっと忙しい身で、仕事が終わるのもだいぶ夜遅くになってからがほとんどだ。
そんなレオナさんの帰りを常に睡魔と戦いながら待つ私は、レオナさんの顔を見ればいったん目は覚めるのだけど、二人でベッドに横になりながら話しているうちに再び眠気に襲われ、最後には私が寝落ちてしまいその日を終える、という場合が多かった。
『今日もお前が寝るまで付き合ってやるから、まだ繋いだままで良い』
「寝るまで、ですか」
『寝るまで、だ』
ふむ。レオナさんはつまり、いつも通り私が寝落ちしてしまうそのときまで話していてくれる、と言ってくれているのだろう。
「でも……明日も早いんじゃないんですか?」
『どうせすぐには寝れねーしな』
その言葉に、学生時代のところ構わず寝ていたレオナさんの姿が脳裏によぎる。
レオナさんに限って、それは無いんじゃ――思わず出そうになった否定の言葉を、すんでのところで飲み込む。
「……じゃあ、もう少し付き合ってくれますか?」
『ん』
思えば、こうして離れ離れで夜を過ごすのもずいぶんと久しぶりだ。
端末を耳に当てたまま、真っ白なシーツの上でゴロリと横になる。
いつもはレオナさんのスペースを空けておくために少し体を端へ寄せているのだけど、今夜はその必要もない。ベッドの真ん中で手足を広げて動かし、無意味にシーツの感触を味わってみる。
私とレオナさんが使うこのベッドはとても大きくて、二人で並んで横になってもなお余裕があるほどに広々としている。私が腕をめいっぱい伸ばしてみても、ベッドの縁には全然届かない。
「……このベッドって、本当に大きいですねぇ」
『今頃か? 毎日寝てんだろ』
「だっていつもはレオナさんと一緒だから気にならなかったというか……むしろ二人で寝ても全然狭く感じなくて、嬉しいくらいなんですけど……」
そう。
この大きなベッドは、一人で寝るにはあまりにも……大きすぎるのだ。
レオナさんは仕事が終わるのがどれだけ遅くなった日も、必ず私たちの寝室に帰ってきてくれていた。
たまに私が眠気に負けてしまい先に眠ってしまった後に帰ってくるときも、もちろんある。
だけど、朝私が目覚めたとき、横には必ずレオナさんがいた。
それがあまりにも自然で、当たり前になっていたから。
だから私は、私が夕焼けの草原にやってきてからただの一度も、一人きりで眠ったことが無かったことに、今さらになって気が付いた。
そして、それはきっと、レオナさんがそうならないようにしてくれていたからなのだろうということも。
「……早く会いたい、です」
レオナさんのいない夜は、こんなにも寂しいんだ。
その心細さに気が付いて、胸の辺りがきゅうと締まる。
『何だ、俺の奥さんはずいぶんと寂しがりになったな』
「レオナさんは寂しくないんですか?」
『寂しくなかったとしたら、俺は今頃夢の中にいるだろうな』
すでに、レオナさんに誕生日のお祝いの言葉を伝えるという当初の目的は果たした。
それでも今もこうして電話を繋いでいてくれているというのは、単に私に付き合ってくれているという理由からだけではないのだと暗に教えてくれて。
私の胸が、今度はほわりと温かくなる。
「……帰ってくるの、明後日でしたよね」
『何事も無ければな』
あぁ、今夜もこれだけ寂しいのに、さらにもう一晩、一人きりの夜を過ごさないといけないなんて。
「明日も……また電話できたりしますか?」
『最初からそのつもりだから、好きにしろ』
「うぅ……全部お見通しですか……」
『何年付き合ってると思ってんだ。このくらい簡単に予想できる』
「すみません、レオナさんのお誕生日なのに……気を遣わせちゃって……」
『誕生日も何も、仕事だからな。こうしてお前と話してると気が抜けてちょうど良いから、気にすんな』
「……普通に息抜きできるって言ってくださいよー」
ずいぶんと素直でない言い回しに、思わず笑みがこぼれる。レオナさんらしいといえば、らしいのだけど。
「レオナさんが帰ってきたら改めてお祝いさせてくださいね。私はもちろんですけど、ファレナ様も王妃様も、チェカくんも、色々準備してるみたいではりきってますよ」
『それは……式典の話か?』
「それとは別に、ですよ」
答えれば、レオナさんは「ほどほどにさせておけよ……」とぼやいた。
王族という以前にまず大切な家族であるレオナさんの誕生日を祝うべくやる気に満ち満ちたあの三人を、私がどうこうできるはずもない。レオナさんもわかってはいるのだろうけど、言わずにはいられなかったようだ。
げんなりとした様子の声音がなんだかおかしくて、クスクスと笑う。レオナさんは不満を訴えるように、グルルと低く唸った。
『……まぁ良い。あの三人のことは帰ってから考える。それより、さっきの話の続きは?』
「続き?」
『明日は歴史の授業なんだろ。この前象の墓場の話を聞いて、何だって?』
「あ、そうだ、それでですねぇ――」
そういえば途中で時間の話になってしまったんだ、と思い出し、再び話し始める。
私が話したいことを話して、合間にレオナさんが相槌をくれて。
レオナさんもレオナさんの話をしてくれて、私もそれを聞いて、笑って。
それを繰り返しながら、私の意識が少しずつ、少しずつ微睡んでいく。
自分でもわかるほどに私の声から力が抜けていき、端末から聞こえてくるレオナさんの声が、少しずつ、遠くなっていく。
あぁ、もっと話していたいのに、終わってしまう。
この楽しい時間が、終わってほしくない。だけど、今夜が終わって、もう一晩が終われば、その後はレオナさんが帰ってくるから。
夜はもっとゆっくり、昼間は早く過ぎてしまえば良いのにだなんて、おかしなことを考えてしまう。
遠くの方でレオナさんの笑い声が聞こえてきたから、もしかしたら言葉に出してしまっていたのかもしれない。
『また明日な』
よく聞き慣れた優しく穏やかな声音に、私はゆるりと口元を綻ばせる。
貴方がいない夜は寂しいけれど、貴方が寂しくなくしてくれる。私は、こんなにも優しい貴方のことが、愛おしい。
レオナさんが帰ってきたら、たくさんお祝いして、たくさん私の大好きを伝えよう。
私はそう心に決めて、そっと瞼を閉じた。