硝子が無い木枠のみの開放的なタイプの窓の側。
私は脚の高い大きなベッドの縁に腰かけ、ちっとも床に届かないつま先をぷらぷらと揺らしながら、目の前に広がる景色を眺めていた。
夕焼けの草原が誇る広大な大地と、その上に広がる雨季の期間にしか見られない緑色の地平線。
そしてそれらを育む大きな太陽と、どこまでも広がる青い空。
控えめに言っても、絶景だ。
こんな景色を自分の住まいから眺められるとは、いやはや、王宮とはとかく素晴らしいものである。
窓辺から差し込む陽光はのほほんと過ごす私の体を程よく温めてくれるし、ときおりふわりと頬を撫でていく風は爽やかな草木の香りを届けてくれる。
私と私の大切な人しか入ることを許されていない部屋の中は、とても穏やかで心地好い空気に満たされていた。
そんな空間で何もせずにじっとしていれば、どうしたって眠気はやってくる。私は湧き上がってきた衝動に抗わないまま大きなあくびを漏らし、背後で体を横たえている彼に声をかけた。
「レオナさん」
呼びかけても応える声は無かったが、もぞもぞと身動ぐ気配があった。
ゆらりと宙に持ち上げられた尻尾が、返事の代わりとでも言わんばかりに私の左腕へ絡みついてくる。
ふわふわとした毛並みの感触をありがたく堪能しつつも、私が望む反応はこれではないのだと伝えるために、もう一度名前を呼んでみた。
「レオナさん」
「……んだよ」
少々間は空いたが、今度はちゃんと返事をしてくれた。
「お仕事、そろそろ戻らなくて大丈夫なんですか?」
「あ? してんだろ、今」
「え!?」
予想外の返答に、思わず大きな声を上げてしまった。
窓の方へ向けていた上半身を捻り勢い良く振り向けば、咎めるように名を呼ばれる。
「おい、もう少し落ち着いて行動しろ。勢いをつけるな」
「すみません、びっくりしてつい。あぁ、本当にお仕事してた……」
てっきり、レオナさんも私と同じようにのんびりと休んでいるだけだと思っていたのである。しかし私が振り向いた先で、レオナさんは何やら小難しい顔をしながら書類に目を通していた。
何ということでしょう。「今日は良い天気だなぁ」などと、呑気に微睡んでいたのは私だけだったようです。
仕事をするのならば執務室で机に向かっていた方がはるかに捗るだろうに。効率を重んじる彼らしくない。
けれどそうまでして、レオナさんがこの部屋――私とレオナさんの寝室に居座っている理由がとても彼らしいものであることを、私は知っている。
私は上半身を元の位置に戻し、視線を自身の足元へ向ける。
ひらひらと風に揺られるスカートからチラリと覗く、細く頼りない右足首。
真っ白な包帯が丁寧に巻かれたそれを視界の端に映しながら、私は優しく語りかけるときの声音で「私なら、大丈夫ですから」と口にした。
しかしレオナさんは安心してくれるどころか、きっぱりと私の言葉を否定した。
「それはお前が決めることじゃない」
「えぇぇ……私の体のことなんですけど」
「侍医はまだ安静が必要だと言っていた」
「…………」
しかめっ面で訥々と返された内容に、口をつぐむ。
今の私は、なんと自力で歩くことを許されていない。
昨日捻挫してしまった右足首へ過度な負担をかけぬよう、三日ほど大人しくしていなさい、といつも診てくれている先生から言い付けられているのである。
ただし、先生——王宮に長年仕えている初老の医師からは、日常生活を送るくらいの動きであれば問題無いとも言われている。にもかかわらず、レオナさんがそれを許してくれなかった。
現在、私が移動を許されているのはこのふかふかのベッドの上だけだ。つまり、一歩も歩くことなく生活することを余儀なくされている。
食事はベッドから届く範囲に移動されたテーブルの上で先ほど済ませたし、何か用事があればレオナさんが代わりに済ませるか、私を運ぶから申告しろと言われている。
また何かあっては敵わない、と頑として譲らないレオナさんに、先生は苦笑いを浮かべていた。結局「痛みが引くまでは殿下にお任せしましょう」とこちらが折れる形に収まったのである。
そもそもの話、私を歩かせたくないにしてもレオナさんが自ら面倒を見る必要もないのだ。私には普段から、身の回りの世話をしてくれている優秀な侍女の方々が着いてくれている。
畏れ多いことではあるが、普段はなるべく自身でやるようにしているような身支度なども含めて彼女たちに全てを任せておけば、私がベッドの上から一歩も動かずに日常生活を送ることはじゅうぶん可能なのである。
「んなこと言って、どうせお前は『手間をかけさせたくない』だ何だ言って無茶するに決まってる。俺が見張ってるのが一番確実だ」
「うーん……ちょっとくらいなら歩けるんですけどねぇ」
「まだ痛いんだろ」
「少しだけですよ。でも、安静にしていればすぐに治ると言われてますから」
「じゃあ、ちゃんと大人しくしてろ」
「もう……わかってますよ」
だからこそ、今も私はこうして日向ぼっこをしながら暇を持て余しているのである。
私は体勢を変え、むっつりと唇を尖らせているレオナさんの側へとにじり寄る。足に体重がかからないように動いていたのに、体を起こしたレオナさんは「移動するなら言え」と不満そうに腕を伸ばしてきた。
両脇に手を差し込まれたかと思えば、子どもを抱き寄せるときのように軽々とレオナさんの隣まで運ばれる。足首に負担がかからないように座らされ、上半身はレオナさんの肩に寄りかからせられた。
うーん、なんとも甲斐甲斐しい。
「お仕事してても、こんなんじゃ全然集中できないでしょう」
「気にしなくて良い。お前は怪我を治すことに専念してろ」
ただでさえ、毎日多忙なレオナさん。
日夜書類と向き合い、寝る時間すら削ってもなお終わらない量の仕事を常に抱えている彼に、これ以上余計な負担をかけたくないのに。
しかし今回の怪我の原因は明らかに私自身の過失であるため、あまり強く出ることもできずにいた。
私の複雑な心境を察したのか、レオナさんの手が私をなだめるように優しく頭を撫で始める。
「——頼むから、これ以上心配ごとを増やしてくれるな」
字面だけでは、迷惑をかけている私に呆れているようにも取れる言葉。
けれどその声音はどこかすがるような響きを持っていて、彼が私を心底案じてくれていることがひしひしと伝わってくる。
そんな気持ちを聞かされてしまっては、もう何も言えるはずがない。私は諦めて、隣の温もりに体重を預けた。
「わかりました……しばらくお世話になります」
「……本当にわかってるのか」
「わかってますって。昨日のことは、さすがに私も焦りましたから」
私が怪我をしてしまったのは、昨日のお昼頃のこと。
私は日課となっている散歩をするために、王宮の回廊を侍女や護衛の人たちとともに歩いていた。
そんなとき、ふといつも眺めている景色の中に見慣れぬ花が咲いているのを見つけた。
穏やかな日々の中での新しい発見に気が昂ってしまったのが、きっといけなかったのだろう。
いつもならなんてことない高さの段差の存在を忘れていたがために、うっかり足を踏み外してしまったのだ。
バランスを崩した体がカクリと前のめりになった瞬間、スローモーションの映像を見ている気分になったのを覚えている。
咄嗟に体の前面を庇うべく、私は下手な受け身を取った。そこまでは良かったのだが、どうやらよろしくない捻り方をしてしまったらしい右足首はズキズキと痛みを訴えていた。
しかし、私は転んでしまったという事実と、それがもたらす最悪の事態を想像してしまい、自身の体を気にかけている余裕はなかった。
地面にくずおれた体勢のまま呆然とする私の名を叫んだ侍女が、血相を変えて駆け寄ってくる。それを皮切りに、現場は一気にパニックになった。
「いいい医師を‼ 誰か早く医師を呼べ‼」
「殿下にご連絡を‼」
「奥様! どこか痛むところは!?」
大人が転んだくらいで大袈裟な、と思われるかもしれない。実際、これまでの私であればそう思って皆をなだめにかかっていただろう。
しかし結果的にこれほどの騒ぎになってしまったのには少々——いや、とても大きな理由があった。
* * *
レオナさんのたくましい腕が私の腰を抱き寄せ、もう片方の手が、壊れ物に触れるかのような手つきでそっと私のお腹を撫でる。
「もう、お前だけの体じゃないんだ」
「……はい」
——そう。
今の私の体には、私以外のもう一人分の命が宿っている。
騒ぎの後、私は丁重に医師の元へと運ばれ治療を受けた。その最中、報告を受け飛んできたレオナさんの表情を、私はきっとこの先忘れることはできないだろう。
焦りと、不安と。
恐らく軽率な行動をしてしまった私への、ほんの少しの怒り。
それから、たくさんの心配と。
レオナさんは様々な感情が入り乱れた、それはもう複雑な表情をしていた。
自分は愛されている。
そして、このお腹の中の子もまた、同じように。
それを改めて実感し、胸の中がほんわりと温かくなると同時に、私が気を抜いてしまったばかりにこの子を危険に晒してしまったこと、周りへ多大なる迷惑と心配をかけてしまったことへの罪悪感でいっぱいになった。
幸いお腹の子の様子に変化は無いそうで、そちらについては経過観察となった。
ひとまず最悪の事態は免れ安心できたものの、私自身が怪我をしてしまったこともあり、最近過保護に拍車がかかってきていたレオナさんは見事、付かず離れず妻の世話をする甲斐甲斐しい旦那さまと相成ったのである。
と、まぁ。転んだ際は私も気が動転してしまっていたが、一晩経った今ではもうすっかり落ち着いているし、注意を怠ってしまったことに対してもしっかりと反省した。
先生からもあまり気に病んでしまうのも心身には良くないと言われている。私がこれから気にすべきことは、もう転んだりしてしまわぬよう一層気を付けることと、足の怪我を一刻も早く治すことだ。
それから、今も私に寄り添い、私以上に私とお腹の中の子のことを心配し不安に思ってくれている旦那さまを、少しでも安心させてあげること。
まだ見た目も変わっていないお腹に触れるレオナさんの手に、自分の手を重ねる。
「本当に、もう大丈夫ですよ。私もこれまで以上に気を付けます」
私の腰を抱く手に、決して痛くないように力が込められる。
「それから……レオナさんにも、周りの皆さんにもちゃんと頼ります。無茶はしません」
「……そうしてくれ」
レオナさんの手が私の横髪をさらい、こめかみにそっとキスを落とされる。チュ、と軽く音を立てて離れていったレオナさんは「少し休憩するか」と言って、書類の束をベッドの端へと追いやった。
「何か飲むか?」
「んー……じゃあ、何か甘いもの、飲みたいです」
素直にお願いした私に、レオナさんは目を細めて頭を撫でてくれた。
少しして、レオナさんは両手に二つのカップを持って戻ってきた。カップを近くのテーブルに置くと、ベッドの縁に静かに腰かける。
いつもならば彼はどかりと座るのでベッドのスプリングが大きく跳ねてしまうのだが、今はギシリと少し揺れただけに終わった。そんな何気ない行動一つから、気を遣ってくれているのがわかる。
そのまま腕を伸ばしてきたレオナさんに身を委ねれば、そっとテーブルの側へと運ばれた。
テーブルに置かれた二つのカップはどちらも湯気を立てていて、片方からはとても甘い香りが漂ってきている。レオナさんから手渡された方のカップを覗き込めば、乳白色の液体がゆらゆらと波打っていた。カフェインを控えている私が最近特に好んで飲んでいる、お砂糖で甘くしたホットミルクだ。
「少し体が冷たかったからな。それを飲んで温まれ」
「風も強くなってきたから、少し閉めるぞ」と続けたレオナさんは、マジカルペンを構えベッド近くのブラインドを下ろした。
その後レオナさんも自分のカップを手に取り、少し冷ましてから口を付ける。鼻に届いた香りから推測するに、レオナさんのカップの中身はコーヒーのようだ。
私も火傷しないよう気を付けながら、ホットミルクをひとくち口に含む。
口内に広がったまろやかな甘さに、思わず頬が弛んだ。
ホットミルクのお陰でポカポカと温まってきた体を、隣で腰かけるレオナさんの方へと寄りかからせる。レオナさんは優しく私の肩を抱いてくれたかと思えば、自分も甘えるように私の首元に顔を埋めた。
スリ、と鼻先をすり寄せてくるレオナさんを私も真似てみれば、無意識か意識してかはわからないけれど、グルルと嬉しそうに喉を鳴らしてくれた。喜んでもらえたことに嬉しくなって、さらに鼻先でレオナさんの肌をくすぐる。
レオナさんは「こそばゆい」と身をよじらせた。しかしその声音に不快の色は無く、とても穏やかだ。
戯れる猫たちのようなスキンシップを満足するまで繰り返した後、視線を絡ませた私たちは同じタイミングで吹き出した。
あぁ、なんて心地好い時間だろう。
「そういえば、二人でこうして過ごすのも久しぶりですね」
「最近はめっきり休めなくなってたからな」
私自身は身重であることも配慮してもらい、勉強の時間以外はだいぶのんびりとした日々を過ごさせてもらっている。けれど、第二王子であるレオナさんはそうもいかない。
彼が最後にきちんとした休みを取れたのは、確か一ヶ月以上も前のことだった気がする。
「体……壊さないでくださいよ?」
「怪我人のお前がそれを言うのか」
「言いますとも。それとこれとは話が別ですからね」
毎日まだ日も昇らぬうちから執務室に向かい、そこから深夜までこもりきりで仕事をこなす生活を送る彼は、休日どころかまとまった休憩時間を確保することすら難しいらしい。
レオナさんが私の身を案じてくれているように、私もまたレオナさんがいつか倒れてしまわないかと、常日頃から気を揉んでいるのである。
「お前がこうして癒やしてくれるなら、何てことねーよ」
「そりゃあ、心のケアは私のできる範囲で頑張りますけども……さすがに体の疲労までは癒やしてあげられないんですから」
コツリと額をくっつけて、互いのまつ毛が重なり合うほどの距離で見つめ合う。
「レオナさんの体だって、もうレオナさんだけの体じゃないんですよ?」
「……わかってる」
「レオナさんと、私と、それから……」
そっと自分のお腹に手を添える。
まだ胎動も感じることはできないけれど、それでも確かにここにいてくれている、大切なこの子。
私たちはもう、私たち皆が揃ってこその『家族』だ。
この中の誰一人として、欠けてはいけない大切な存在。
「ね、レオナさん」
「ん?」
腕を伸ばして、そっと目の前の人を抱き締める。
レオナさんは私に甘えるように、顎をグリグリと肩に押し付けてきた。柔らかなレオナさんの髪を撫でながら、私はずっと聞いてみたかったことを尋ねる。
「レオナさんは、何がしたいですか?」
私の問いかけに、レオナさんはぱちりと瞬いた。
しまった、大事な言葉をすっ飛ばしてしまった。
「えぇと、この子が産まれたらの話なんですけど……何か皆でしたいこと、ありますか?」
お腹に撫でながら補足すれば、レオナさんは「そういうことか」と頷くと、顎に手を当てて悩み始めた。
おぉ、真剣な顔だ。
唐突すぎる質問にも真面目に考えてくれる姿が嬉しくて、ついつい口元が緩んでしまう。ニヤついている私に気が付いたレオナさんは、照れくさいのか眉をひそめてフイと明後日の方向を向いてしまった。
しばらく静かな時間が続き、私はレオナさんがどんな答えを返してくれるのか、ワクワクしながら待っていた。
しかし、
「……無いな」
「えっっ……」
ポツリと呟かれた言葉は、想定外のものだった。
私はショックのあまり、大げさに体をのけ反らせる。後ろへと傾いた私の体を、レオナさんが焦った顔で支えた。
「違う、早合点するな。何も無いって意味じゃねーよ」
「そ、そうなんですか?」
私はホッと胸を撫で下ろした。
「純粋にやってみたいことなら、色々と思い付く。ただ……『無事に産まれてきてくれること』以上に望むことは思い付かないってことだ」
今度は、私がぱちぱちと瞬く番だった。
「もう……もっと欲張ってくださいよ」
「じゅうぶん欲張ってるだろう。万が一にもお前とコイツに何かがあれば、俺はまたこの世界を憎むことになる」
「…………」
「俺はもう二度と、俺が望んだ『未来』を誰からも……世界からも、奪われたくない」
目を伏せ淡々と述べたレオナさんは、その内容にたまらず眉を下げた私にフ、と柔らかく微笑んだ。
「お前にも子どもにも何事もなく『家族』が揃うなら……俺はもう、それだけで良い」
そっと抱き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。
レオナさんの言いたいことは、わかる。しかし、それは大前提なのである。私は、それが叶った後にレオナさんが望むことを、聞いてみたかったのだ。
「駄目ですよ。それだけだなんて」
「駄目って……お前なァ」
何かを続けようとしたレオナさんの口に人差し指を当て、強引に言葉を紡げなくしてしまう。
「私たちがこの先過ごす時間には、きっと数えきれないくらいの幸せが待ってるんですから。思い付く限りの全部を、望みましょうよ」
私が微笑んで言えば、「全部……か」と呟いたレオナさんが目を細めて笑う。
「強欲な奥さんだな」
「フフ、私をこんなに欲深い女にしたのは、レオナさんですよ」
「俺か?」
「レオナさんが私のお手本になってくれましたから」
しみじみと言えば、レオナさんは「俺が欲深いって言いたいのか」と少々不満げだ。そんな彼に、私は「違いますよ」と苦く笑う。
むしろ、その逆なのだ。
反面教師とでも言うべきだろうか。
「野菜は食べたくないとか、私が膝枕しないなら休憩しないとか、そんな可愛らしいわがままは言うくせに、レオナさんは肝心なところでちっともわがままを言ってくれないんですから」
私は「だから、私がレオナさんの分までわがままになることにしたんです」と続けて、レオナさんの胸元にすり寄る。
私が甘えれば、レオナさんは私を甘やかしてくれるし、一緒になって甘えてくれる。
だけど私が甘えることを止めてしまえば、レオナさんも一緒に甘えることを止めてしまう。
自分からは決して望もうとしない彼に、私は何度やきもきしたことか。
「甘やかされている私が言うのもどうかと思いますけど、甘やかされている身だからこそ言います。レオナさんは、もっとたくさんのことを望んで良いんです。私が全部を叶えてあげるとは言えませんが……一つでも多く、貴方の願いを叶えるために頑張ります」
けれど、そのためにはレオナさんの口から、レオナさんの望みを聞かなければ、私は何もできない。
いつだってこの人が喜んでくれるようなことをしてあげたいと思っていても、それが本当にこの人が望むことであるのかどうかは、教えてもらえないとわからない。
「レオナさんが、私に言ってくれたんじゃないですか。欲しいものは欲しいと、望みたいことを望めって。だからこそ私は今、ここにいられるんです」
国どころか、生まれた世界すら異なる私。
身一つでやって来て、家族も仕事も何一つ持たない私に、レオナさんは『私が望む未来』を、私自身に選ばせてくれた。レオナさんと生きたいと願った私に、居場所を作ってくれた。
自分が味わってきた理不尽を、私には味わわせたくないと言ってくれた、優しい貴方。
「なので、レオナさんも望んでください。口にしてください。レオナさんがしたいと思うこと全部……余すことなく、私に教えてくださいな」
レオナさんの頬に手を添えて言えば、レオナさんは眉をひそめた。
「……お前に、これ以上余計な負担は増やせない」
「それ、私も思ってるんですけど?」
「…………」
その言い訳は、私には通用しない。何せ今現在も、レオナさんは同じ理由で渋る私を説得し、頼らせている真っ最中なのだから。
「でも、こちらばかりに甘えさせるのはズルいと思いません?」
その言葉が、決定打になってくれたようだ。
苦虫を噛み潰したときのように顔をしかめたレオナさんが、小さくため息を吐く。
「わかった……今回は俺が折れてやる」
「ありがとうございます」
にこりと笑えば、レオナさんは肩をすくめて「で、コイツが産まれた後に何がしたいか、だったか?」と話題を戻した。
レオナさんの大きな手のひらが、再び私のお腹に添えられる。
「そうだな……子どもが産まれたら、一緒に散歩をしたい」
「良いですねぇ。今日みたいに晴れた日は、きっととても気持ち良いです」
答えながら、王宮の中庭をゆったりと歩くレオナさんと私、それから私の腕の中で笑う我が子の姿を思い浮かべる。
ぽかぽかと体を温めてくれる、お日様の光。
ふわりと肌を撫でてくれる、優しい風。
緑に囲まれながら三人揃って過ごす穏やかな時間は、どれほど魅力的だろうか。
「一緒に、本も読みたい」
「フフ、最初は絵本から始めましょうか」
レオナさんが好む本はどれも文字が多くて難しいものばかりだから、子どもが読めるようになるまでは時間がかかるだろう。
それまでは私とレオナさんが選んだ絵本や童話を、三人で肩を並べて読みふけよう。文字が読めるようになるまでは、レオナさんも読み聞かせをしてくれるだろうか。
「チェスもできるように、教えたいな」
「おっと……それは私も一緒に教わらないとですね」
「お前はいまだにちっとも俺に勝てないからな。きっとすぐに追い越されるぞ」
「簡単に想像できちゃいますね……何と言っても、レオナさんの子どもですから」
「俺とお前の、だ。お前みたいなお人好しになっちまうかもな」
その言葉のうちに若干の皮肉を感じ取った私も、負けじと言い返す。
「レオナさんみたいなお野菜嫌いにならないと良いですけどね」
「お前が作った料理は野菜まみれでもちゃんと食ってるだろ」
「それは……まぁ、嬉しいですけど」
本音は他の人のお料理でも、野菜も全て食べてほしいところではある。
普段のレオナさんの食事は、メインの肉料理以外のほとんどが私のお手製だ。身篭ってからは体の調子が良いときしか厨房には立っていないが、レオナさんは王宮に集められた国随一のプロの料理人たちが作る食事よりも、ど素人の私が作る食事の方がお好みらしい。
以前、料理長は「愛には勝てませんね……」と寂しそうにぼやいていた。料理長の作る料理はどれも絶品なので、私はとても大好きなのだけど。
レオナさんはレオナさんで「面倒なら別に良い」とは言うが、先の言葉の通り、レオナさんは私以外の人が作る野菜料理はなんだかんだと理由をつけて食べてくれないのだ。健康のことも考えるとお野菜は食べてもらいたいし、何より、大好きな人が望んでくれるというのなら、何度だって作ってあげたいではないか。
ちなみに肉料理に関してはどうしても上手く調理できないので、そこだけは諦めてもらっている。とはいえ、王宮のお抱えシェフという選び抜かれたプロから色々と教わっているお陰で、私の料理の腕も学生時代の頃より格段に上がったと思っている。
あぁ、子どもがある程度大きくなったら、三人で一緒に料理をするのも楽しそうだ。お菓子作りでも良いな。
「思い付くことを全部話してたら、キリがないな」
「それで良いんですよ。もっともっと教えてください」
「……お前は言わないのか? お前だって、したいことがあるだろ」
「今はレオナさんの番ですから」
「俺はもう何個も言った。いつお前の番になるんだ」
「……じゃあ次からは、一個言うごとに交代にしましょうか」
まだもう少し、レオナさんの方の望みを聞いていたい。けれどレオナさんが自分だけ話すのは照れくさいとそわそわし始めたので提案してみると、すぐに切り替えて不敵な笑みを浮かべた。
「どっちが最初に言うことが尽きるか、楽しみだな」
「私も負けませんよ!」
そうして私たちは、空高くにあった太陽が沈んで辺りが赤く染まってしまうまで、思い付く限りの『未来』についてを話したのだった。
「一度書類を片付けてくる」
中身が空になった二つのカップを手に取り、レオナさんが立ち上がる。
「良いか、勝手に動くなよ。何か必要なら侍女を呼べ」
「わかりましたから……」
「三十分くらいで戻る。その後食事にするぞ」
「はぁい」
ちなみに、怪我をした以降は厨房には立たせてもらえていない。元々身篭ってからはしばらく控えるようにも言われていたのだが、体の調子が良いときだけでもと無理を言ってやらせてもらっていたのだ。
今回の件もあったので、さすがにもう厨房への立ち入り禁止令が出されてしまうかもしれない。それはちょっぴり寂しいが、致し方ない。
それに、昨晩夕食を運んできてくれた侍女が「料理長が久しぶりにお二方のために腕を奮えると泣いて喜んでいましたよ」と教えてくれたのだ。しばらくは料理長の顔を立てる意味でも、甘えることにしよう。
「私は少し横になってますね。いってらっしゃい……レオナさん?」
「ん……いや……」
ピタリと動きを止めてしまったレオナさんに、首を傾げる。その視線は私——というよりも、私のお腹へ一直線に注がれている。
横になろうと体を傾けた中途半端な体勢をいったん元に戻して、レオナさんと向き合う。
「まだ動かないんだよな」
「赤ちゃんですか? そうですね、胎動はまだもう少し先らしいですよ」
今はまだ、ようやく安定期に入ったばかりだ。検診の際に医師から聞いたことを答えると、レオナさんの耳がしょんぼりと伏せられた気がした。それを誤魔化すためか、妙に険しい表情をしている。
「……動いたら、すぐ教えろよ」
どうやら、レオナさんは相当待ちわびているらしい。
難しい顔をして健気なお願いをしてきたレオナさんに、私はあまりの可愛らしさについクスクスと笑ってしまった。
レオナさんは不満そうに「笑うな」と文句をつけると、手に持っていたカップを再びテーブルに戻す。そして自由になったその手で、笑いを抑えきれないまま謝る私の頭をグリグリと撫でた。
「少しじっとしてろ」
レオナさんがベッドの縁に腰かけたままの私の正面に膝をつき、体を伸ばして私のお腹に顔を寄せる。
「まだ何も聞こえませんよ」
「わかってる」
「……待ち遠しいですねぇ」
「本当にな」
温もりを分け与えるようにすり寄ってくる愛しい旦那さまの頭を撫でていた、そのとき。
何ともタイミングの良いことに、私のお腹がキュルルと小さな音を立てた。
数秒ほど、二人して黙り込む。
私のお腹に顔を埋めたまま、レオナさんの肩が震え出した。
「今のはコイツの声か?」
「わ、私のお腹の音ですよ……! わかってて聞いてますね!?」
顔に熱が集まるのを感じながら答えれば、レオナさんはおかしそうに喉を鳴らして笑った。おそらく、先ほど彼を笑ってしまった私への意趣返しだろう。
「夕飯、先に運ばせておくか?」
レオナさんが揶揄うような口調で尋ねてくる。
私はほかほかと熱を放つ頬を手で押さえながら、「待ってるので大丈夫です……」と答えた。
顔を上げたレオナさんは「いってくる」と告げると、私の唇を軽く啄み、今度こそ部屋を出ていった。
ひとり残された私も横になり、まだレオナさんの温もりがほんのりと感じられる自分のお腹をぼんやりと眺める。
なかなか膨らむ気配を見せない、薄っぺらいお腹。
そっと手を当てながら、私は心の中でまだ見ぬ我が子に話しかけた。
私もね、貴方と会えるそのときが、待ち遠しくてたまらないの。
私と、レオナさんと、貴方。
『家族』皆で、穏やかに笑い合える日々を。
そんな温かなひとときを。
私たちは首を長くして待っているよ。
「……あんまり言うと、慌てさせちゃうかな」
そそっかしい私の血も受け継いでいる子だから、あまり焦らせてしまうと大変なことになりそうだ。
ゆっくりで、良いからね。
そう付け足してから、ふかふかのベッドの上に体を横たえる。レオナさんが戻ってきたら、今度は何を話そうか。
私はとても優しい気持ちに包まれながら、そっと目を閉じた。